「正しさ」はどうやって納得させる?~同性婚の事例を手掛かりに~

政治的記事。長め。同性婚に賛成する人に特に読んでほしい。

同性婚は概ね「正しい」事例である。私は様々な反対意見を聞いてきたが、再反論に耐えるものはなかった。*1 同性婚反対派の主張は社会の安寧だの少子化だの述べているが、結局のところ彼らが反対する理由は、同性婚は従来の婚姻制度と比べて不自然すぎる、という一点に尽きるだろう。この不自然さという感覚は、それ自体なんら倫理的正当性は無いものだし、そういった身勝手な主張を今ここで批判するのも野暮だろう。

なぜ彼らが「不自然」だと思っているのかが重要である。確かに彼ら(同性婚反対者)は間違っている。間違っているのだが、彼らに間違ってますよ、と言い続けたところで彼らは間違い続けるし、彼らは同性婚に反対し続けるだろう。ここに倫理学の限界がある。たしかに倫理学は物事が正しいか間違っているかの判断を下すことができ、望ましい社会のありかたを提示することができる。だがこれは、望ましい社会が訪れることを意味しない。倫理学はある選択が正しいか間違っているかについて答えることができる。だからといって選択が自動的に行われるわけではない。選択は人間の行為であり、倫理以外にも様々な要素が複合的に絡まって決定されるものだ。例に殺人をとってみよう。殺人は人類普遍の悪と言っていいくらい、広範な社会に忌むべきものとして受け入れられている。殺人は間違っている。だが、世界から殺人がなくなることはないだろう。世界から殺人をなくすためには、殺人に対して「間違っている」というだけではなく、そのほかの措置が必要になってくる。

 

私が同性婚賛成者に危惧しているのはそこである。同性婚を制度化するには賛成者の内側だけで盛り上がるのではなく、反対者の意見を変える必要がある。これは「説得」と呼ばれるプロセスだが、私が見た限りその「説得」は、反対者に向けて真摯に訴えるというよりは、むしろ賛成者の絆を強固なものにしているだけにすぎない。先日行われた、ニュージーランドの議員の素晴らしいスピーチを見てみよう。

「同性婚に反対する人へ。約束しましょう」ニュージーランドの議員の演説に耳を傾けてみよう

今、私たちがやろうとしていることは「愛し合う二人の結婚を認めよう」。ただそれだけです。

外国に核戦争をしかけるわけでも、農作物を一掃するウイルスをバラ撒こうとしているわけでもない。

お金のためでもない。単に、「愛し合う二人が結婚できるようにする」この法案の、どこが間違っているのか。だから、本当に理解できないんです。なんでこの法案に反対するのかが。自分と違う人を好きになれないのはわかります。それはかまいません。みんなそんなようなものです。

この法案に反対する人に私は約束しましょう。水も漏らさぬ約束です。

明日も太陽は昇るでしょうし、あなたのティーンエイジャーの娘はすべてを知ったような顔で反抗してくるでしょう。明日、住宅ローンが増えることはありませんし、皮膚病になったり、湿疹ができたりもしません。布団の中からカエルが現れたりもしません。明日も世界はいつものように回り続けます。だから、大騒ぎするのはやめましょう。この法案は関係がある人には素晴らしいものですが、関係ない人にはただ、今までどおりの人生が続くだけです。

 素晴らしいスピーチだ。正論だし、反対者のことも考えている。「同性婚を認めても異性愛者には関係ありませんよ」と、ここまで言い切っているのも潔い。そう、実は同性婚というイシューは、日本人からみたアメリカの銃規制以上に、どちらが正しいかわかりやすく、さらに同性婚を認めたとしても社会は損をすることはないのである(同性婚を認めた次の日の区役所は少し忙しくなるかもしれないが)。

君たちはなにも失うものがないのに、と多くの同性婚賛成者は反対者に言うだろう。だが、残念ながら、こうした説得方法は完全に間違っている。彼らは、反対者の意見には対処してきたが、「なぜこの人たちは同性婚に反対するのだろう」という至極まっとうな問いを無視してきた。それには間違ったことを言っている奴は学が足りないから理解できない、という反対派の傲りもあったであろう。彼らは人を見ずに、思想だけを「説得」してきた。

確かに、同性婚を認めた日にも太陽は昇るし、娘は反抗する。しかし、同性婚が認められず異性婚だけが認められてきた、その日々は二度と帰ってこない。男女が恋愛し、子供を産み、家庭をはぐくんてきたことが推奨され、尊敬されてきた社会。そのような社会は昨日で終わったのだ。昔ながらの価値を重んじてきた人にとってはそれは、アイデンティティーの喪失に近い状態であろう(例えそれが間違っていたとしても、である)。

これが大した問題なのか、と冷笑する人もいるだろう。彼らは正しい。正しいが、それだけだ。問題解決には何ら寄与していない。NHKEテレの「リーダーシップ白熱教室」でハーバードケネディスクールの講義が放送されていたのだが、その第5回のハイフェッツ教授とネパールから来たサプナという生徒のやりとりがそういう人たちを象徴しているように見える。*2 教授は、「物事を変革するには、変革に反対する人たちが変革によって失うものを理解し、説得すること大事である」と述べた後に、生徒からある指摘を受ける。

 生徒「女性の権利について活動するとものすごい抵抗があるんです。教授が言っていたように、『失うことへの恐れ』なんだと思います。例えば私は妊娠中絶に関する法律を変えようとしているんですが、男性には直接何の影響も無いのにもかかわらず抵抗されます。女性の性を支配する力を失ってしまうと感じているからだと思います。教授は、人は何かを失うと思うと抵抗するとおっしゃいましたね。でもなぜアメリカで今も、中絶に対する反対があるんでしょう。別に何を失うわけでもないと思うんですが。

 

教授「君がすべきなのは、何を失うのか、その損失を特定することだ。おそらく彼らには本当に失うものがあるんだと思う。失われるものが何かを明確に把握していなければ、人々に失うことを受け入れさせることはできない。例えば私は愛のあふれる家庭で育った、と仮定しよう。両親は善良な人達で、責任を持って私を育ててくれて、いい教育を与えてくれた。私が成長する過程で、両親は私に物事のあり方や考え方を教え、同時に価値観も植え付けた。私が学んだそういう価値観は、愛情と入り混じっている。価値観は、愛情を持って育てる親から子に受け継がれるからだ。子供は、愛情も価値観も一緒にまぜこぜになったまま受け取る。そして大人になるころには、自分を愛し、慈しんでくれた人たちのコミュニティーの価値観がすっかり自分の中に根付き、それが自分の脳のソフトウェアとなって働いている。こういうときはこう、こういうときはこう、という具合に、無数の規定が存在する。何をするにもその人なりのルールがある。それは、生まれてから長い時間をかけて取得してきたもの。地域社会、目上の人達、友達や両親から学んできた規定だ。例えば今、私がネパールの男性で、サプナ(生徒)がさっきの問題を突き付けてきたとする。私は大人の男で、結婚しており、子供もおり、両親がそうだったように、自分もいい親であろうと努力している。なのに、今君は『妊娠を継続するかどうかの権利は女性にある』と言った。『女性が妊娠を継続しようがしまいが、男には直接関係がないのに』とね。しかし、サプナの言ったことは、別の言葉でいえば、私の父と母が教えてくれた価値観、あるいは宗教的指導者から教わった倫理観、地域社会の目上の人達から教わったことは間違っている、ということだ。君は自分のおじいちゃんが教えてくれたことを間違いだと思えるかい?おじいちゃんが孫に女性にいくら権利があるからといって、おなかの赤ちゃんを勝手に殺す権利があるということにはならないと教えていたとする。だとすれば君は、その人に『大好きなおじいちゃんの教えに背け』と言っている事になるんだ。それは大きな損失だよ。変革が大変なのは、自分にとって大事な人達との軋轢を産むからだ。私たちの中には、それぞれ自分の価値観があり、これはこうだと決めてかかっていることがある。それはいわば、使っていることに気付かずに使っているソフトウェアのようなものだ。私たちはみな固定観念を持っている。成長の過程で、世の中はこういうものだと周囲から教えられながら成長する。だから価値観が身にしみついているのが当然で、自分を愛し慈しみ、教えてくれた人達に対する忠誠心を持って当然だ。まず君に学んで欲しい。その人たちの生き方を変えるように促す事は、今度は彼らが忠誠を誓う人達との軋轢を越えていくようにしなければならない。だからサプナ、君の仕事は、そういう損失の痛みを引き受けてくれるよう人々を導くことだ。君は人々の足を踏みつけ、大事なものを捨てろ、と言わなければならないわけだ。しかし、人々が何を失うのか分かっていなければ、その仕事は始められない。サプナが祖国で、女性の権利を推進しようとすることは、大勢の男性、そして女性に『貴方たちの文化の重要な一部を捨てなさい』と言っているのと同じことになる。君は誰かの所にいき、『これから足の指を踏み、痛い思いをさせるよ』と言う。でもいっぺんに五本の指を踏んだりはしない。君が我慢できる範囲でだ。まずは指一本から。踏まなきゃならないんだ。そうしないといずれ大変なことになる。だがサプナ、君は誰かの足を踏んでいることにも気付いてもいない。君はいわば、後ろを見ずに下がった拍子に、誰かの足を踏んでしまい、その誰かから蹴り返されてびっくり仰天している状態だ。今までの歴史に敬意を払いつつ新しい一歩を踏み出していかなければならない。その歴史が、たとえ暴力に彩られた犯罪的なものもあっても、そこにはある種の忠誠心があり、伝統がある。その社会なりの理由があり、それを分析し理解しなればならない。変革の痛みに対し、深い敬意を払う必要がある。」

 

NHK リーダーシップ白熱教室 『第5回 難題と向き合おうじゃないか』

 続けて別の生徒が質問する。

 生徒「私が気になっているのは、人も私に何か捨てろと求めている時に、どうやったら人に『捨ててもいい』と思わせられるのか、ということです。向こうは私に歩み寄るよう求める。私は彼らにこっちへ来るように求める。私が思いついた例は、アメリカにおける銃規制法です。私はどちら側の意見なのか分かっているし、今の銃規制法を変えたいと心から願っています。でも、逆の意見を持っている人達にも、心の中に深く根付いた価値観があるわけですよね?今は、どちらの側もどんどん態度を硬化させていて、どちらも相手の側が自分たちの価値観を受け入れるべきだと考えているように感じます。」

 

教授「君から人々の所へ行き、話に耳を傾けることだ。そして彼らがなぜそう考えるのか、彼らの忠誠心や価値観の根っこはどこにあるのかを学ぶことだ。学ぶことによって初めてその価値観の中に君が敬意を払うものを見つけ出せるし、敬意を払えない価値観は捨てるように説得できる。あるいは価値観の表現の仕方を変えるよう説得できる。誰かの銃を取り上げようとする前に、まず理解しなければならないことは、もしかしたらその人は、子供の頃父親から銃の撃ち方を教わったのかもしれない、という事だ。私はアイスクリーム・コーンを見ると、父と過ごした楽しかった思い出がよみがえるのだが、同じようにある人達にとっては、銃は楽しかった思い出の象徴なのかもしれない。父親と一緒に星空の下で眠り獲物を追いかけた。彼らにすれば、『その思い出を取り上げるのか?』という事になる。彼らは銃を持つ権利がどうのこうの言っているが、問題の本質はそこにあるんじゃないんだ。彼らは自分に銃の扱い方を教えてくれた父親に忠誠心を抱いている。父は優しく、愛情をこめて銃の安全な扱い方を教えてくれた。人を殺せる銃を扱うという事は責任を伴う。だからそれは責任感のある人間になれと教えることでもあっただろう。相手の価値観やそれまで過ごしてきた人生をよく知ったうえで初めて、どうやって説得したらいいかが見えてくる。相手の世界観の中で、現実に銃が引き起こしている悲劇を直視してもらうんだ。最終的には相手の大事な思い出を捨てさせる事なく君の目的を達成する方法を考えることだ。父親と一緒に狩りに行くのが好きだった人は、狩りを好きなままでいいし、父親の思い出を捨てなくてもいい。ただ、誰でも簡単に銃を買える事は出来なくすればいい。あるいは、銃や弾倉のサイズや種類を考え直し、一度に多数の銃弾を発射できるようなものを規制すればいい。つまり未来へ残していっていい価値観と、捨てて欲しい価値観とを明確に区別して、相手を説得すればいいんだ。でも今は君は自分が何を言ったのかも分かっていない。でもそれでいいんだ。これから状況を分析して診断していけばいいわけだから。」

 

生徒「いえ、銃の規制は例として挙げただけです。私の専門は気候変動なので。」(会場笑い)

 

NHK リーダーシップ白熱教室 『第5回 難題と向き合おうじゃないか』

 「お前たちは何も失うものが無いんだから」というのは傲慢だ。失うものを定義するのは私たちではなく、「お前たち」なのだから。同性婚を制度化しようという運動の中で、最も無視されているのは「同性婚が認められると反対する人達は何を失うのか」という分析だ。同性婚反対派の主張は倫理的には全く持って正当性が無い。だがもしかしたらある種の忠誠心があるかもしれない。それは彼らの両親や目上の人達から愛と共に植え付けられたものだ。彼らは幼少期、両親が深い愛情を持って自分を育ててきてくれたという感謝を、同性婚反対という間違った方法で表現しているだけかもしれない。同性婚に反対する人の多くが、シングルマザーや離婚持ちの人たちに冷たい態度をとる層とかぶっている事実は、彼らが同性愛者に対して嫌悪感を抱いているというよりも、同性愛者がつくる社会によって、既存の家庭のあり方が壊されることに危機感抱いていることを示している。

確かに日本には同性愛に対する生物的誤解がたくさんある。同性愛について深く知る機会を作り出すことは重要であろう。しかし、同性愛について皆がよく理解すれば、一気に同性婚が認められる、という見方は希望的観測以外の何ものでもない。問題は無理解にあるのではない。問題は、多くの人が、「同性婚は既存の家族制度を崩壊させる」という恐れを抱いているところにある。そしてそれは、彼らの両親から教わった、温かく愛にあふれる理想的な家庭を築こうという意志と密接に結びついている。彼らの愛にあふれる家庭を築こうとする努力や、両親への感謝は、尊敬に値するものだ。だから我々は彼らに、そういった価値観は持ち続けていいですよ、と明確に示さなければならない。明確に示した上で、その価値観を持ち続けることは、同性婚に賛成することと何ら抵触しないということを理解させなればならない。同性婚を認めても、両親への感謝や愛あふれる家庭といった価値は何ら損なわれることはなく、むしろ同性愛者はそれを目指して同性婚を制度化しようと頑張っているのだ、ということを説明する義務が我々にはある。「あなた方大切にしている価値観はまだ大切なままである。ただ、今回はその価値観を信奉する集団に、同性愛者が加わるだけですよ」と言って彼らの大切な価値観の表現方法を変え、同性婚の「不自然さ」を払しょくさせる必要があるだろう。

日本における同性婚議論の大部分が、こういった背景を無視して、その思想自体の正当性を競う議論に終始していることに、私は深い懸念を抱いている。確かに同性婚反対者は間違っている。だが、彼らが間違っているからと言って、彼らの頭が弱いとか、彼らが人間的に劣っているとかいう考えを抱くのは、彼らが間違っている以上に間違っている。そのような見方は、同性婚の制度化という社会正義を追求しようとする気高い意志よりも、むしろ考えが足りない人を見下して満足しようとする矮小な自尊心から生まれているように感じる。思想は人に従属するものであるから、我々は思想を変えるときに、人をも変えなればならない。そしてそれがどのような人であろうとも、その人なりの世界があり、理由がある。それに対して敬意を払う必要があるだろう。

*1:もしよければ、反対意見をコメントに残して行って欲しい。その中で説得力のあるものがあれば、私もその「正しさ」を保留するかもしれない。

*2:余談になるが、リーダーシップ白熱教室は是非とも全編通して見てほしい。特に社会が間違っていると思っている人は、必見である。