シン・ゴジラ論評~”抵抗”と”団結”なき歪な破壊のカタチ~

 

去年の年の瀬だが、地上波で放映されていたのでようやっと観た。

 

本当に今更感があり残念でならないのだが、観ていて書きたいことがあったので、簡単な批評を行おうと思う。 

 

ちなみに自分は怪獣映画はこれ以外観たことがない。従って、論ずる主題はもっぱら「ゴジラがどのように描かれているか」になるので、素朴が感想が欲しい方はご留意を。

 

 

 

1. 先行研究

 

まずは映画批評家(?)杉田氏のこの感想を足がかりに議論を進めていこうと思う。(コメント欄は見る価値ないです)

 

togetter.com

左翼かよ。って言われるちゃうけど、批評に関しては左翼のほうが100倍面白いからしょうがないね。(右翼はゴジラ動いたすげーしかいわないし)

 

要点をまとめると、

 

①民衆と犠牲者からの目線が薄い(ポピュリズムや大衆感情を見下している)

②専門的分業を行うエリート層を礼賛(①の対になる哲人政治

③危機に対処する「強い日本」像を打ち出している、それに右派が乗っかっているのが気に食わない

 

だろうか、まぁ一般的な左派の視点といえるだろう。でもそういう素朴な左派の第一感がえてして真相に迫る足がかりにもなり得るのが面白い。

 

 

もうちょっと頭の良い北守氏の批評を引っ張ってこよう。

 

d.hatena.ne.jp

 国家・内戦・シンゴジラってノージックのアナキー・国家・ユートピアみたいでかっこいいすね

 

かなり述べられていることが難解だが、

 

ゴジラに対処していた人々は「新しい日本」を作り上げる”パルチザン”である。

ゴジラもまた地方民という群衆を内包した”リヴァイアサン”であり、これは内戦である

③「強い国家」を希求する風潮がある、シン・ゴジラブームはそれに乗った。

 

③だけほぼ一緒だが、①と②の点に関してはだいぶ前の批評と異なっている。具体的には、前の批評では「群衆・大衆が描かれてなかった」というのに対して、この批評では「群衆・大衆が描かれていてそれが統合された」というふうに捉えられている。

 

 

では、我らがカブトムシ大先生の評価を引っ張ってこよう。

 

 

 

この評価はつまり、ゴジラの方こそがパルチザンだよ、と述べているわけだ。ゴジラこそが原発や切り捨てられた”地方”の怨念であり、抵抗をする側という見方である。

 

 

こうして比べてみると、同じような思想の中でも相当に捉え方が異なっているのがおわかりいただけるであろう。同時に、これらの相違点は、映画に出てくる民衆・ゴジラ・抵抗の3要素をどう捉えるかの違いに基づいているのがわかると思う。

 

 

2.  シン・ゴジラVSインディペンデンス・デイ

 

シン・ゴジラという物語がものすごくガラパゴスな世界観の上に成り立っていた事は、日本国内での異常な人気と海外での不評というギャップを見れば明らかであろう。そういった日本独自の物語(ナラティブ)の上にあるシン・ゴジラは、同じハザード映画であるハリウッドの金字塔インディペンデンス・デイと比べてみるとその特異さが目立つ。

 

インディペンデンス・デイは、ハリウッド映画である。ハリウッド映画は、世界中に放映されるのである種の包括性を備えるが、その第一の客はアメリカ人であり、従って「アメリカ人の物語」の上に成り立っている。

 

独立(インディペンデンス)の名が示すとおり、インディペンデンス・デイは、アメリカの原初体験たる独立戦争をベースにしている。独立戦争は、ミニットマンなどに代表されるように、民兵、つまり民衆のvoluntaryな側面が非常に象徴的である。つまり、そこには民衆たちの物語がある。人民(People)一人ひとりが自発的に団結し、強大な圧制者を打ち倒すという物語である。

 

この物語は、しばしばアメリカ人以外からは(そして一部のアメリカ人の中からも)は、ある種の独善性をもって受け止められる。アメリカ独立の物語は、アメリカ人にとって建国神話であり正義である。そしてShining City Upon A Hill(丘の上の光り輝く街)の名が示すように、アメリカはその正義を見せつけることに恥がない。

 

一方で、これはあくまで”神話”であり、必ずしもアメリカ人が思うほど栄光に満ちていたわけではない。歴史で習うように、アメリカ独立戦争ではイギリスに忠誠を誓い独立に反対するロイヤリストと呼ばれる人たちがいたし、独立はそういう人たちをカナダ等に追い出すことによって成し遂げられた。voluntaryと言いながらも、13植民地が統合して設立された大陸軍の定員は15000人を超えることが無かった。また、自発的な人民と抵抗というセットは、しばしば清教徒革命やフランス革命のように、暴力的な結末を導き出す。アメリカ独立戦争の物語は、(その他の独立の物語同様)あくまでフィクションである。

 

そのフィクション性はともかく、アメリカ人には、抵抗する人民と圧政というのは非常にとっつきやすい概念である。多くのアメリカ映画やゲームでアメリカが外国に侵略されそこから反抗を行うというシナリオがあるが、それは単に自国を侵略者をして描きたくないという倫理的要請以上に、アメリカの原体験と非常にマッチしていう理由がある。

 

このことは、インディペンデンス・デイの有名の演説シーンにおいて特に象徴的に明示される。

 

“Good morning. Good morning.

In less than an hour, aircraft from here will join others from around the world, and you will be launching the largest aerial battle in the history of mankind.

Mankind, that word should have new meaning for all of us today.

We can’t be consumed by our petty differences anymore.

We will be united in our common interest. Perhaps it’s fate that today is the 4th of July,

and you will once again be fighting for our freedom.

Not from tyranny, oppression, or persecution, but from annihilation.

We’re fighting for our right to live, to exist, and should we win the day.

The 4th of July will no longer be known as an American holiday,

but as the day when the world declared in one voice,

‘We will not go quietly into the night!

We will not vanish without a fight! We’re going to live on, we’re going to survive.’

Today we celebrate our independence day!”

 

インディペンデンス・デイ、大統領の演説

 

アメリカ大統領が演説において”We”を使うことはもはや珍しいことではなくなった。この演説は厳密には大統領から軍人に対するスピーチであるが、この”We”が指すものは、アメリカ国民であり、 世界中の人々でもある。宇宙人からの侵略に立ち向かう、団結した人民に対する演説である。

 

この演説は、シン・ゴジラにおける同じようなシーン、ヤシオリ作戦に望む自衛隊員や公務員に対する演説と比べると差異が際立つ。

 

今回のヤシオリ作戦遂行に際し、放射線量の直撃や、急性被爆の危険性があります。

ここにいる者の生命の保証はできません。

 

……だがどうか実行してほしい! 我が国の最大の力は、この現場にあり、自衛隊は、この国を守る力が与えられている最後の砦です。

日本の未来を、君たちに託します。…以上です。

 

シン・ゴジラ矢口蘭堂の演説

 

この演説の名宛人は「現場の人」であり、そこには人民や大衆は出てこない。現実的に考えれば、最後の決戦に望む演説で一般国民に対する意味を含ませるというのは脚色的過ぎるかもしれない。しかしインディペンデンス・デイにおいては、その方が自然である。 なぜなら、最後の戦いでエイリアンに対して決死の攻撃を仕掛けるのは、一公務員たるアメリカ軍人Aではない。それは、アメリカ市民全員でもあり、全地球上の市民全員でもあり、映画を観ている視聴者ですらある。本来無関係である視聴者を巻き込むほど、インディペンデンス・デイの演説は力を持っている。

 

 

3. シン・ゴジラで描かれたもの、描かれなかったもの

 

大衆や人民を描いたインディペンデンス・デイと比較して、シン・ゴジラは一貫して「公務員の物語」である。

シン・ゴジラで描かれたものは官僚であり、専門化集団であり、行政である。

杉田氏の「大衆・民衆」が抜け落ちていたという素朴な指摘は正しい。

 

 確かに、日本政府がゴジラの熱線によって壊滅するまでを作品前半部とするなら、前半部においてとりわけそうした描写は濃密であった。総理官邸で繰り広げられる会議に次ぐ会議、手続きの積み重ね、様々な役職名の乱舞は、それが力強いフォントでスクリーンに登場することも相まって、多くの人の印象に残るものだっただろう。

 しかし、ある人が指摘したように、本作で力点をもって描かれていたのは、「政治」ではなく「行政」であった。既に方向性を定められたことを、具体的な政策手段に落とし込み、行政組織が実行していくというプロセスだった。ゴジラの排除という方策を、淡々と推し進めていくプロセスの描写であった。

 

シン・ゴジラ論のあとのシン・ゴジラ論 - Valdegamas侯日常

覚えきれないのにわざわざ個人名まで出すこの高速テロップは、ようするに日本人の強さとは「個」ではない(だからさほど気にする必要はない)、という事を伝えているのである。

これがアメリカ映画ならば、主人公なりヒロインなりが出てきて、強力なリーダーシップをふるい、オタク然としたIT技術者が画期的なサイバー攻撃を仕掛ける、なんてお定まりの展開になる。つまり「個」の能力によって事態を切り開くわけだ。

ところが「シン・ゴジラ」は違う。主人公らしき人物も、個性的な技術者や学者も出てくるが、彼らは決して「個」で活躍することはない。それぞれ所属の各省庁だったり、内閣だったり、あくまで「塊」として、ひとかたまりとして力を発揮する。

なにしろそうした「組織」になじまない、はみだしものたちを集めた緊急対策チームでさえそうなのである。一人ひとりに名前はあるが、彼らは最後まで「集団」としてゴジラと対峙する。

 

超映画批評「シン・ゴジラ」90点(100点満点中)

 

インディペンデンス・デイは大衆ではなく個人しか描かれていないよ、という反論もあるかもしれない。部分的にその指摘は正しい。創作物において、物語の構成上、無名の大衆’sを主役にすることは難しい。

 

しかし一方で、プライベートの私的な部分を含めて描くことによって、等身大の生身の人間たちが、一つの理念の元に団結し統合されるというプロセスが、より強調される。そのプロセスは、全世界で起こる「We will be united in our common interest.」の大きな流れの一部分、サンプルでもある。個人に焦点を当てることによって、全体でも同じこと起こっていたよ、という推論を与える描き方でもある。

 

では、シン・ゴジラにそのような流れはあっただろうか?プライベートが一切描かれず、自分の業務をこなす公務員たち。多少のゴタゴタと手続きがあるものの、彼らは統合する必要がないように思える。なぜなら、最初からcommon interestが決まっているように思われるからである。

 

思えばシン・ゴジラで生身の人間として描かれたのは、SNSで拡散する大衆・逃げ惑う大衆という枝葉末節な部分でしかなかった。大衆が描かれなかったことはそのままシン・ゴジラにおける政治性の欠如という論点につながる。政治を求めるのは国民である。国民の描写が無ければそこに政治は生まれない。

 

おそらくシン・ゴジラは、丁寧な取材を重ねたであろう、有事対策におけるテクニカル・メカニカルな部分に焦点をあてて描写したかったのであろう。だが私には、その代償としてナニか大きなものを失ったように思えてならないのである。

 

 

4. ”抵抗”と”団結”なきシン・ゴジラ

 

ここにきて論点は最初に挙げた3つの批評の差異に戻ることになる。

 

前述したように、シン・ゴジラでは、大衆は序盤にちょっとした描かれなかった。しかし、大衆が暗示的なものとして作中の描写に組み込まれていたという視点も説得力を持つ。

 

北守氏のようにゴジラを国家の象徴(リヴァイアサン)と捉え、切り捨てられた地方の人々や震災被災者の人々の集合体と捉えることは妥当だろうか?そして、一歩進めてそれを社虫氏のように抵抗権の発露と捉えることは可能だろうか?

 

 

抵抗権の歴史は古く、近代国家の成立と時期を同一にするといっても良い。そして、それは現在の国家の正当性をも理論付ける、社会契約説と密接な関連性がある。最も完結に抵抗権について述べているアメリカ独立宣言をみてみよう。

 

We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness.

That to secure these rights, Governments are instituted among Men, deriving their just powers from the consent of the governed, That whenever any Form of Government becomes destructive of these ends, it is the Right of the People to alter or to abolish it, and to institute new Government, laying its foundation on such principles and organizing its powers in such form, as to them shall seem most likely to effect their Safety and Happiness. Prudence, indeed, will dictate that Governments long established should not be changed for light and transient causes; and accordingly all experience hath shewn, that mankind are more disposed to suffer, while evils are sufferable, than to right themselves by abolishing the forms to which they are accustomed. But when a long train of abuses and usurpations, pursuing invariably the same Object evinces a design to reduce them under absolute Despotism, it is their right, it is their duty, to throw off such Government, and to provide new Guards for their future security.

 

United States Declaration of Independence, 1776

 

 

重要な点は、抵抗権は単に支配者に抵抗するというだけのものではないということだ。

 

”団結”無き”抵抗”は、ただの反逆、復讐、破壊衝動である。団結は、将来の国家を作り出すというプロセスの中で決定的な役割を果たす。団結があり、そして既存の支配者を打ち倒した先に共同体(将来の国家)を築き上げる展望があるからこそ抵抗権は必要であり、認められる。なぜなら、抵抗権の理論的要請は、自然権を保障しない(できない)政府を打ち倒して、自然権を保障する政府に作り変えるところにあるからである。抵抗は手段に過ぎない。目的は国家に人民の自然権を保障させるところにある。

 

かつて、冷戦期において多くの被植民地の国が、抵抗と支配からの脱却を御旗に一斉に独立を果たした。しかし、その大部分のケースにおいて、”団結”というプロセスを省略したがゆえに、現在にも続く問題を抱えている。統合に取り残された民族的マイノリティに対する迫害・虐殺。専制的な独裁者の台頭。軍部によるクーデタ―。多くの被植民地国において、独立とは宗主国に対する抵抗と脱却を意味するものではなかった。彼らが目撃したのは、宗主国が占めていた地位を新たな政治的エリートが埋め変えたものに過ぎなかった。

 

 

”団結”が適切に描かれた”抵抗”の物語は、非常にエモい。インディペンデンス・デイの演説しかり、アメリカ独立宣言然り、フランス革命然り。

 

 

www.youtube.com

 

なぜ”抵抗”の物語が美しく、そしてこんなにも心を揺さぶれるのか。それは、抵抗こそが、我々の心を団結させ一つに統合させる力をもっているからである。近代国家の成立以降の中で最も強いエネルギーをもっている原初の祀り。それこそが”抵抗”である。

 

”抵抗”の物語は美しく、抗い難く、絶対的である。だからこそ、多くの国家は抵抗の物語とナショナリズムを融合させた。独善的であるからこそ、国家を支える支柱となった。*1

 

ゴジラにそのような物語が内包されていただろうか。そうは思えない。ゴジラを動かしていたのは怨念、怨嗟、復讐である。それらの欲望が原動力になって破壊活動を行う怪物。そこに独立宣言やインディペンデンス・デイにみられる、崇高かつ美しい抵抗権の発露を見出すことは断じてできない。 

 

 

おそらく北守氏は、ゴジラの破壊の先に生産性がなにも無いことにうすうす気付いていたに違いない。ゴジラの”反逆”の末に新しい国家を作る展望が見えなかったからこそ、ゴジラは「内戦」に負けなければならなかったし、ゴジラ=抵抗権という視点を採用することはできなかった。

 

しかし、私に言わせれば、ゴジラに対処する主人公たち=専門家集団も同様に、リヴァイアサンたりえない。この作中で描かれているのはリヴァイアサンではない。国家ですらない。プライベートを一切持たない人間=部品の集合体である装置である。

 

国民が描かれなければ国家も描くこともできない。国家は人民が自由意志に基づく社会契約を結ぶからこそ意味と存在意義を持つ。国家の命令に忠実に従う道具から構成される共同体は、国家の皮をかぶったおぞましいナニカである。

 

 

5. 終わりに

 

ゴジラは人々が団結した象徴になりえない。ゴジラは破壊しかしないからである。ゴジラの後に日本をスクラップ&ビルドで立て直すのもゴジラはないし、作品の主人公格たり国家の部品でもある専門化集団でもない。それらは作品で描かれなかった大衆である。ゴジラという災害によって政治的きずなを断ち切られた人たちが、再び団結し新しい日本を作る。最後の一番大事な役目を、一番描写を省略してきた人たちに任せるなんて、あまりにも無責任ではないだろうかシン・ゴジラの感想はこれに尽きる。

 

 

ここで「シン・ゴジラでは抵抗と人々の団結が描かれなかった」と結論付けて批評を終わらせてもいいかもしれない。しかし、私が今回気になったのは、「”抵抗”における”団結”という視点の欠如」の問題の根深さである。シン・ゴジラは氷山の一角にすぎない。知識人でさえも誤認した”抵抗”の概念。この視点で諸作品を観たとき、ラノベ、小説、ドラマ、アニメといった媒体を問わないポリティカル・フィクションというジャンルにおいて、「抵抗と団結」を適切に描写した作品は日本ではまず見受けられない、もしくは受け入れられないという絶望的な事実がある。この点について、次の記事で詳しく取り上げてみたい。

*1:だからこそ、”抵抗”の物語は危険でもある。