星野、目をつぶって感想~主人公が成長する物語VS主人公が貫き通す物語~

先日、『星野、目をつぶって』という漫画を読んだ。

全体的にクオリティが高く、多分アニメ化する作品になると思う。でも正直9巻以降はとにかく展開を動かしたい粗が目立って人物描写がおざなりになってると思う

 

物語の構図としては、ボーイミーツガール系であり、主人公がヒロインのメイクを手伝う役になるところからスタートする。

スクールカーストの概念も出てくるため、『俺ガイル』と似ているといってもいい。

 

主人公は、幼少期の体験がもとで、人との付き合いを閉ざしているタイプ。まっすぐなヒロインの態度に心打たれ、次第にリーダーシップを発揮して、心を開いていく。

 

端的に言えば、『主人公が成長する物語』なんだけど、その成長の評価軸はスクールカースト的な立ち位置や友人関係などで評価しているため、「リア充になる物語」という点に収束してしまうのが非常に残念。

 

物語基盤として、「主人公になんらかの傷(内面的な)を与え、それを物語中で解消ないし克服させることにより成長を描く」というのは題材としてわかりやすいし、ありふれたものである。しかし、だからこそ、成長の方向には細心の注意を払う必要があると思う。特に、主人公が「変わりたい!」と明言した際に、成長する方向を明示しすぎるとそれ以外の生き方に関して、社会的なスティグマを押すことになるからである。

 

この、より良いモノを明示する形でのスティグマの押し付けは、物語中に随所で見られる。例えば、主人公が応援団に入って奮闘するシーン。学校行事に積極的に参加していくことがどう主人公の変化・成長につながるのかは自明ではない。またたびたびヒロインが抱える「メイクをしていること=本当の自分を隠している」というノーメイク信仰なども謎だ。

 

個人的な意見として言えば、別にメイクして自分の素顔を隠すなんて当たり前のことだし、みんなと一緒に青春を満喫しなくてもいいじゃないかとも思うのだが。そういう多様な考え方があるのに、あるべき形を全面に押し出していくこの物語は少し窮屈だと思う。

 

この「スクールカースト低位に位置する主人公が、頑張って成長して、スクールカースト上位になって美人な恋人もゲット」という図式が、自らもスクールカーストの被害を受けながらも、スクールカーストという枠組み自体は破壊できずに、その中での逆転モノを描くことに終始した、ハリウッド映画やアメリカンドラマを彷彿させるので非常に残念である。

 

よくほしつぶと比較されやすいスクールカーストモノの物語として『俺ガイル』があるが、『俺ガイル』が徹底的にスクールカーストという枠組みを破壊するスクールカーストもののアンチテーゼとして受け入れらているのに対して、あくまでほしつぶは正統派ラブコメである、という点は強調されるべきだろう。

 

要するに、この物語中では成長のあるべき方向がかなり恣意的なので、そこらへんのうさん臭さとか、そういう部分が目に付いてしまいなかなか感情移入できないのである。

 

あと単純に、「主人公が成長する物語」より「主人公が貫き通す物語」の方が物語として力強い、という問題もある。これの顕著な例がFate/Stay Nightにおける凛ルートと桜ルートの人気度の差異につながっている(正義の味方を貫きとおす凛ルートの主人公の方が一人の味方になる桜ルートよりも人気)のだが、同様の現象は『俺ガイル』においてもみられる。主人公が貫いていた前半は斜め下の解決策で物語を動かしていていくのが痛快であったが、7巻以降の「奉仕部」という仲間ができてからの主人公は、彼が嫌悪しているリア充グループと同じマインドに変化しつつあるのだが、その変化があるからこそ、あの周囲をがっかりさせた対処法だったのだと思う。

 

ちまみに、主人公が貫き通す物語として、最高峰に位置しているのが『響~小説家になる方法』だ。主人公は天才で、また控えめにいっても頭のネジが飛んでいる、実質犯罪者のようなことをしでかすのだが、そのメンタリティは強烈で、読者を魅了してやまない。『響~小説家になる方法』では、主人公の彼氏格っぽい人がいて、その人と一緒になればつつましくも幸せな人生が予見されているのだが、おそらく主人公はそれを選ばないだろうし、そういう点で「あるべきカタチ」を押し付けていない点はよくできていると思う。

 

ぐだぐだいろいろと書いたが、結局のところ、ほしつぶには「そのままでいいんだよ」という肯定の優しさがない、という点に尽きるのかもしれない。

 

僕がUに語ったお話は……物語は、一般的ではない人間が、一般的ではないままに、幸せになる話だった。頭のおかしな人間が、頭のおかしなままに、幸せになる話だった。異常を抱えた人間が、異常を抱えたままで、幸せになる話だった。友達がいないという奴でも、うまく話せない奴でも、周囲と馴染めない奴でも、ひねくれ者でも、あまのじゃくでも、その個性のままに幸せになる話だった。恵まれない人間が恵まれないままで、それでも生きていける話だった。

 

それはたとえば、言葉だけを頼りにかろうじて生きている少年と世界を支配する青い髪の天才少女の物語である。またたとえば、妹を病的に溺愛する兄と物事の曖昧をどうしても許せない女子高生の物語である。知恵と勇気だけで地球を救おうとする小学生と成長と成熟を夢見る魔法少女の物語である。家族愛を重んじる殺人鬼と人殺しの魅力に惹きつけられるニット帽の物語である。死にかけの化物を助けてしまった偽善者と彼を愛してしまった吸血鬼の物語である。映画館に行くことを嫌う男と彼の十七番目の妹の物語である。隔絶された島で育てられた感情のない大男と恨みや怒りでその見を焼かれた感情まみれの小娘の物語である。挫折を知った格闘家と挫折を無視する格闘家の物語である。意に反して売れてしまった流行作家と求職中の姪っ子の物語である。奇妙に偏向した本読みと、本屋に住む変わり者の物語である。何もしても失敗ばかりの請負人とそんな彼女に好んで振り回される刑事の物語である。意志だけになって生き続けるくのいちと彼女に見守られる頭領の物語である。

 

とりとめもなく、ほとんど共通点もないそれらの話だったが、でも、根底に漂うテーマはひとつだった。

 

道を外れた奴らでも、間違ってしまい、社会から脱落してしまった奴らでも、ちゃんと、いや、ちゃんとではないかもしれないけれど、そこそこ楽しく、面白おかしく生きていくことはできる。

 

それが、物語に込められたメッセージだった。 

 

西尾維新、『少女不十分』

 

だから西尾維新の物語はどこか優しい。だから私は西尾維新が好きだ。

 

別に物語一筋の救いがなければならない、というつもりはないが、どこか息苦しさを覚えるラブコメだった。