オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』感想


大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

 

 



 

全体として

 

題名や印象に反して、ある種の鉄人政治やスノビズム礼賛的な鼻につく態度は少なかった。知性人(著作の中では『少数者』と呼ばれているもの)と大衆を対比して、後者を批判するという構図は、現在の我々から見れば、『少数者』の無謬性が無いようされる哲人独裁であり、非常に独善的で危険なように見えるが、著作の中ではそこまで独善的には捉えられない。むしろ大衆の台頭、そしてその反逆を不可避の社会現象として捉え、その処方箋を提示するよりも、病理の診断をすることを目的としているため、「大衆の権利を制限して~」のような思想にはつながらない。

 

 

ある(古典的に)名著とされる著作を読むときに重要な点は、当時の社会的状況や文脈を加味して吟味する必要があるということだと私は思う。名著とされるものが現在も読まれている理由は、現在においても変わらない、時代普遍的な意義がその本の中に含まれているからであるが、書いた人本人は、時代を超えた普遍的な原則・原理を提示するものとして書いたというよりも、短・中期的な時代の要請に従って書いたとことの方が圧倒的に多い。

 

例えば、重商主義批判としての面を踏まえずにアダム・スミスを読んでも意味がないし、むしろそういう読み方は、著作の中では想定されていないサービス業においても「神の見えざる手」が働く(とスミスは主張している/主張するであろう)という誤った解釈を導き出す。したがって、アダム・スミスを正しく評価するためには、当時の重商主義政策批判という文脈は不可欠なものとなってくる。

 

 

これをオルテガに当てはめて考えてみると、当時の中間層台頭という社会現象を抜きにして『大衆の反逆』を読むことは望ましくないだろう。オルテガは、少数者が独占的に支配していた享楽が、もはや大衆がその担い手になった(そして少数者も大衆の参加を前提とした)ということをエピソード的に語るところからこの本を始めている。疑いようもなく、これは中間層―—原語的な意味でのブルジョワジーである―—の台頭に他ならないし、この中間層が19世紀後半から20世紀にかけて果たした社会的役割については強調しすぎても足りないということは無いだろう。中間層はその後の民主主義の一番基礎的なユニットになったのだから。

 

であるならば、中間層の消滅、格差の拡大と富めるものと貧するものへの二極化が叫ばれる現在の先進国において、オルテガの『大衆』概念と彼らが引き起こす問題をそのまま当てはめることは望ましくない。現在先進国で叫ばれている民主主義の危機は、中間層が台頭することによって起こっているのではなく、中間層が消滅することによって起こっているからだ。私はむしろ、オルテガの本はファシズム批判として読まれるべきだと思う。オルテガの中で描かれている『大衆』とどこかアーレントのいう「アイヒマン」的な人物像を想起させる。そういう意味では、『大衆の反逆』は数年後に来たファシズムの防波堤としての役割の方が強い。

星野、目をつぶって感想~主人公が成長する物語VS主人公が貫き通す物語~

先日、『星野、目をつぶって』という漫画を読んだ。

全体的にクオリティが高く、多分アニメ化する作品になると思う。でも正直9巻以降はとにかく展開を動かしたい粗が目立って人物描写がおざなりになってると思う

 

物語の構図としては、ボーイミーツガール系であり、主人公がヒロインのメイクを手伝う役になるところからスタートする。

スクールカーストの概念も出てくるため、『俺ガイル』と似ているといってもいい。

 

主人公は、幼少期の体験がもとで、人との付き合いを閉ざしているタイプ。まっすぐなヒロインの態度に心打たれ、次第にリーダーシップを発揮して、心を開いていく。

 

端的に言えば、『主人公が成長する物語』なんだけど、その成長の評価軸はスクールカースト的な立ち位置や友人関係などで評価しているため、「リア充になる物語」という点に収束してしまうのが非常に残念。

 

物語基盤として、「主人公になんらかの傷(内面的な)を与え、それを物語中で解消ないし克服させることにより成長を描く」というのは題材としてわかりやすいし、ありふれたものである。しかし、だからこそ、成長の方向には細心の注意を払う必要があると思う。特に、主人公が「変わりたい!」と明言した際に、成長する方向を明示しすぎるとそれ以外の生き方に関して、社会的なスティグマを押すことになるからである。

 

この、より良いモノを明示する形でのスティグマの押し付けは、物語中に随所で見られる。例えば、主人公が応援団に入って奮闘するシーン。学校行事に積極的に参加していくことがどう主人公の変化・成長につながるのかは自明ではない。またたびたびヒロインが抱える「メイクをしていること=本当の自分を隠している」というノーメイク信仰なども謎だ。

 

個人的な意見として言えば、別にメイクして自分の素顔を隠すなんて当たり前のことだし、みんなと一緒に青春を満喫しなくてもいいじゃないかとも思うのだが。そういう多様な考え方があるのに、あるべき形を全面に押し出していくこの物語は少し窮屈だと思う。

 

この「スクールカースト低位に位置する主人公が、頑張って成長して、スクールカースト上位になって美人な恋人もゲット」という図式が、自らもスクールカーストの被害を受けながらも、スクールカーストという枠組み自体は破壊できずに、その中での逆転モノを描くことに終始した、ハリウッド映画やアメリカンドラマを彷彿させるので非常に残念である。

 

よくほしつぶと比較されやすいスクールカーストモノの物語として『俺ガイル』があるが、『俺ガイル』が徹底的にスクールカーストという枠組みを破壊するスクールカーストもののアンチテーゼとして受け入れらているのに対して、あくまでほしつぶは正統派ラブコメである、という点は強調されるべきだろう。

 

要するに、この物語中では成長のあるべき方向がかなり恣意的なので、そこらへんのうさん臭さとか、そういう部分が目に付いてしまいなかなか感情移入できないのである。

 

あと単純に、「主人公が成長する物語」より「主人公が貫き通す物語」の方が物語として力強い、という問題もある。これの顕著な例がFate/Stay Nightにおける凛ルートと桜ルートの人気度の差異につながっている(正義の味方を貫きとおす凛ルートの主人公の方が一人の味方になる桜ルートよりも人気)のだが、同様の現象は『俺ガイル』においてもみられる。主人公が貫いていた前半は斜め下の解決策で物語を動かしていていくのが痛快であったが、7巻以降の「奉仕部」という仲間ができてからの主人公は、彼が嫌悪しているリア充グループと同じマインドに変化しつつあるのだが、その変化があるからこそ、あの周囲をがっかりさせた対処法だったのだと思う。

 

ちまみに、主人公が貫き通す物語として、最高峰に位置しているのが『響~小説家になる方法』だ。主人公は天才で、また控えめにいっても頭のネジが飛んでいる、実質犯罪者のようなことをしでかすのだが、そのメンタリティは強烈で、読者を魅了してやまない。『響~小説家になる方法』では、主人公の彼氏格っぽい人がいて、その人と一緒になればつつましくも幸せな人生が予見されているのだが、おそらく主人公はそれを選ばないだろうし、そういう点で「あるべきカタチ」を押し付けていない点はよくできていると思う。

 

ぐだぐだいろいろと書いたが、結局のところ、ほしつぶには「そのままでいいんだよ」という肯定の優しさがない、という点に尽きるのかもしれない。

 

僕がUに語ったお話は……物語は、一般的ではない人間が、一般的ではないままに、幸せになる話だった。頭のおかしな人間が、頭のおかしなままに、幸せになる話だった。異常を抱えた人間が、異常を抱えたままで、幸せになる話だった。友達がいないという奴でも、うまく話せない奴でも、周囲と馴染めない奴でも、ひねくれ者でも、あまのじゃくでも、その個性のままに幸せになる話だった。恵まれない人間が恵まれないままで、それでも生きていける話だった。

 

それはたとえば、言葉だけを頼りにかろうじて生きている少年と世界を支配する青い髪の天才少女の物語である。またたとえば、妹を病的に溺愛する兄と物事の曖昧をどうしても許せない女子高生の物語である。知恵と勇気だけで地球を救おうとする小学生と成長と成熟を夢見る魔法少女の物語である。家族愛を重んじる殺人鬼と人殺しの魅力に惹きつけられるニット帽の物語である。死にかけの化物を助けてしまった偽善者と彼を愛してしまった吸血鬼の物語である。映画館に行くことを嫌う男と彼の十七番目の妹の物語である。隔絶された島で育てられた感情のない大男と恨みや怒りでその見を焼かれた感情まみれの小娘の物語である。挫折を知った格闘家と挫折を無視する格闘家の物語である。意に反して売れてしまった流行作家と求職中の姪っ子の物語である。奇妙に偏向した本読みと、本屋に住む変わり者の物語である。何もしても失敗ばかりの請負人とそんな彼女に好んで振り回される刑事の物語である。意志だけになって生き続けるくのいちと彼女に見守られる頭領の物語である。

 

とりとめもなく、ほとんど共通点もないそれらの話だったが、でも、根底に漂うテーマはひとつだった。

 

道を外れた奴らでも、間違ってしまい、社会から脱落してしまった奴らでも、ちゃんと、いや、ちゃんとではないかもしれないけれど、そこそこ楽しく、面白おかしく生きていくことはできる。

 

それが、物語に込められたメッセージだった。 

 

西尾維新、『少女不十分』

 

だから西尾維新の物語はどこか優しい。だから私は西尾維新が好きだ。

 

別に物語一筋の救いがなければならない、というつもりはないが、どこか息苦しさを覚えるラブコメだった。

シン・ゴジラ論評~”抵抗”と”団結”なき歪な破壊のカタチ~

 

去年の年の瀬だが、地上波で放映されていたのでようやっと観た。

 

本当に今更感があり残念でならないのだが、観ていて書きたいことがあったので、簡単な批評を行おうと思う。 

 

ちなみに自分は怪獣映画はこれ以外観たことがない。従って、論ずる主題はもっぱら「ゴジラがどのように描かれているか」になるので、素朴が感想が欲しい方はご留意を。

 

 

 

1. 先行研究

 

まずは映画批評家(?)杉田氏のこの感想を足がかりに議論を進めていこうと思う。(コメント欄は見る価値ないです)

 

togetter.com

左翼かよ。って言われるちゃうけど、批評に関しては左翼のほうが100倍面白いからしょうがないね。(右翼はゴジラ動いたすげーしかいわないし)

 

要点をまとめると、

 

①民衆と犠牲者からの目線が薄い(ポピュリズムや大衆感情を見下している)

②専門的分業を行うエリート層を礼賛(①の対になる哲人政治

③危機に対処する「強い日本」像を打ち出している、それに右派が乗っかっているのが気に食わない

 

だろうか、まぁ一般的な左派の視点といえるだろう。でもそういう素朴な左派の第一感がえてして真相に迫る足がかりにもなり得るのが面白い。

 

 

もうちょっと頭の良い北守氏の批評を引っ張ってこよう。

 

d.hatena.ne.jp

 国家・内戦・シンゴジラってノージックのアナキー・国家・ユートピアみたいでかっこいいすね

 

かなり述べられていることが難解だが、

 

ゴジラに対処していた人々は「新しい日本」を作り上げる”パルチザン”である。

ゴジラもまた地方民という群衆を内包した”リヴァイアサン”であり、これは内戦である

③「強い国家」を希求する風潮がある、シン・ゴジラブームはそれに乗った。

 

③だけほぼ一緒だが、①と②の点に関してはだいぶ前の批評と異なっている。具体的には、前の批評では「群衆・大衆が描かれてなかった」というのに対して、この批評では「群衆・大衆が描かれていてそれが統合された」というふうに捉えられている。

 

 

では、我らがカブトムシ大先生の評価を引っ張ってこよう。

 

 

 

この評価はつまり、ゴジラの方こそがパルチザンだよ、と述べているわけだ。ゴジラこそが原発や切り捨てられた”地方”の怨念であり、抵抗をする側という見方である。

 

 

こうして比べてみると、同じような思想の中でも相当に捉え方が異なっているのがおわかりいただけるであろう。同時に、これらの相違点は、映画に出てくる民衆・ゴジラ・抵抗の3要素をどう捉えるかの違いに基づいているのがわかると思う。

 

 

2.  シン・ゴジラVSインディペンデンス・デイ

 

シン・ゴジラという物語がものすごくガラパゴスな世界観の上に成り立っていた事は、日本国内での異常な人気と海外での不評というギャップを見れば明らかであろう。そういった日本独自の物語(ナラティブ)の上にあるシン・ゴジラは、同じハザード映画であるハリウッドの金字塔インディペンデンス・デイと比べてみるとその特異さが目立つ。

 

インディペンデンス・デイは、ハリウッド映画である。ハリウッド映画は、世界中に放映されるのである種の包括性を備えるが、その第一の客はアメリカ人であり、従って「アメリカ人の物語」の上に成り立っている。

 

独立(インディペンデンス)の名が示すとおり、インディペンデンス・デイは、アメリカの原初体験たる独立戦争をベースにしている。独立戦争は、ミニットマンなどに代表されるように、民兵、つまり民衆のvoluntaryな側面が非常に象徴的である。つまり、そこには民衆たちの物語がある。人民(People)一人ひとりが自発的に団結し、強大な圧制者を打ち倒すという物語である。

 

この物語は、しばしばアメリカ人以外からは(そして一部のアメリカ人の中からも)は、ある種の独善性をもって受け止められる。アメリカ独立の物語は、アメリカ人にとって建国神話であり正義である。そしてShining City Upon A Hill(丘の上の光り輝く街)の名が示すように、アメリカはその正義を見せつけることに恥がない。

 

一方で、これはあくまで”神話”であり、必ずしもアメリカ人が思うほど栄光に満ちていたわけではない。歴史で習うように、アメリカ独立戦争ではイギリスに忠誠を誓い独立に反対するロイヤリストと呼ばれる人たちがいたし、独立はそういう人たちをカナダ等に追い出すことによって成し遂げられた。voluntaryと言いながらも、13植民地が統合して設立された大陸軍の定員は15000人を超えることが無かった。また、自発的な人民と抵抗というセットは、しばしば清教徒革命やフランス革命のように、暴力的な結末を導き出す。アメリカ独立戦争の物語は、(その他の独立の物語同様)あくまでフィクションである。

 

そのフィクション性はともかく、アメリカ人には、抵抗する人民と圧政というのは非常にとっつきやすい概念である。多くのアメリカ映画やゲームでアメリカが外国に侵略されそこから反抗を行うというシナリオがあるが、それは単に自国を侵略者をして描きたくないという倫理的要請以上に、アメリカの原体験と非常にマッチしていう理由がある。

 

このことは、インディペンデンス・デイの有名の演説シーンにおいて特に象徴的に明示される。

 

“Good morning. Good morning.

In less than an hour, aircraft from here will join others from around the world, and you will be launching the largest aerial battle in the history of mankind.

Mankind, that word should have new meaning for all of us today.

We can’t be consumed by our petty differences anymore.

We will be united in our common interest. Perhaps it’s fate that today is the 4th of July,

and you will once again be fighting for our freedom.

Not from tyranny, oppression, or persecution, but from annihilation.

We’re fighting for our right to live, to exist, and should we win the day.

The 4th of July will no longer be known as an American holiday,

but as the day when the world declared in one voice,

‘We will not go quietly into the night!

We will not vanish without a fight! We’re going to live on, we’re going to survive.’

Today we celebrate our independence day!”

 

インディペンデンス・デイ、大統領の演説

 

アメリカ大統領が演説において”We”を使うことはもはや珍しいことではなくなった。この演説は厳密には大統領から軍人に対するスピーチであるが、この”We”が指すものは、アメリカ国民であり、 世界中の人々でもある。宇宙人からの侵略に立ち向かう、団結した人民に対する演説である。

 

この演説は、シン・ゴジラにおける同じようなシーン、ヤシオリ作戦に望む自衛隊員や公務員に対する演説と比べると差異が際立つ。

 

今回のヤシオリ作戦遂行に際し、放射線量の直撃や、急性被爆の危険性があります。

ここにいる者の生命の保証はできません。

 

……だがどうか実行してほしい! 我が国の最大の力は、この現場にあり、自衛隊は、この国を守る力が与えられている最後の砦です。

日本の未来を、君たちに託します。…以上です。

 

シン・ゴジラ矢口蘭堂の演説

 

この演説の名宛人は「現場の人」であり、そこには人民や大衆は出てこない。現実的に考えれば、最後の決戦に望む演説で一般国民に対する意味を含ませるというのは脚色的過ぎるかもしれない。しかしインディペンデンス・デイにおいては、その方が自然である。 なぜなら、最後の戦いでエイリアンに対して決死の攻撃を仕掛けるのは、一公務員たるアメリカ軍人Aではない。それは、アメリカ市民全員でもあり、全地球上の市民全員でもあり、映画を観ている視聴者ですらある。本来無関係である視聴者を巻き込むほど、インディペンデンス・デイの演説は力を持っている。

 

 

3. シン・ゴジラで描かれたもの、描かれなかったもの

 

大衆や人民を描いたインディペンデンス・デイと比較して、シン・ゴジラは一貫して「公務員の物語」である。

シン・ゴジラで描かれたものは官僚であり、専門化集団であり、行政である。

杉田氏の「大衆・民衆」が抜け落ちていたという素朴な指摘は正しい。

 

 確かに、日本政府がゴジラの熱線によって壊滅するまでを作品前半部とするなら、前半部においてとりわけそうした描写は濃密であった。総理官邸で繰り広げられる会議に次ぐ会議、手続きの積み重ね、様々な役職名の乱舞は、それが力強いフォントでスクリーンに登場することも相まって、多くの人の印象に残るものだっただろう。

 しかし、ある人が指摘したように、本作で力点をもって描かれていたのは、「政治」ではなく「行政」であった。既に方向性を定められたことを、具体的な政策手段に落とし込み、行政組織が実行していくというプロセスだった。ゴジラの排除という方策を、淡々と推し進めていくプロセスの描写であった。

 

シン・ゴジラ論のあとのシン・ゴジラ論 - Valdegamas侯日常

覚えきれないのにわざわざ個人名まで出すこの高速テロップは、ようするに日本人の強さとは「個」ではない(だからさほど気にする必要はない)、という事を伝えているのである。

これがアメリカ映画ならば、主人公なりヒロインなりが出てきて、強力なリーダーシップをふるい、オタク然としたIT技術者が画期的なサイバー攻撃を仕掛ける、なんてお定まりの展開になる。つまり「個」の能力によって事態を切り開くわけだ。

ところが「シン・ゴジラ」は違う。主人公らしき人物も、個性的な技術者や学者も出てくるが、彼らは決して「個」で活躍することはない。それぞれ所属の各省庁だったり、内閣だったり、あくまで「塊」として、ひとかたまりとして力を発揮する。

なにしろそうした「組織」になじまない、はみだしものたちを集めた緊急対策チームでさえそうなのである。一人ひとりに名前はあるが、彼らは最後まで「集団」としてゴジラと対峙する。

 

超映画批評「シン・ゴジラ」90点(100点満点中)

 

インディペンデンス・デイは大衆ではなく個人しか描かれていないよ、という反論もあるかもしれない。部分的にその指摘は正しい。創作物において、物語の構成上、無名の大衆’sを主役にすることは難しい。

 

しかし一方で、プライベートの私的な部分を含めて描くことによって、等身大の生身の人間たちが、一つの理念の元に団結し統合されるというプロセスが、より強調される。そのプロセスは、全世界で起こる「We will be united in our common interest.」の大きな流れの一部分、サンプルでもある。個人に焦点を当てることによって、全体でも同じこと起こっていたよ、という推論を与える描き方でもある。

 

では、シン・ゴジラにそのような流れはあっただろうか?プライベートが一切描かれず、自分の業務をこなす公務員たち。多少のゴタゴタと手続きがあるものの、彼らは統合する必要がないように思える。なぜなら、最初からcommon interestが決まっているように思われるからである。

 

思えばシン・ゴジラで生身の人間として描かれたのは、SNSで拡散する大衆・逃げ惑う大衆という枝葉末節な部分でしかなかった。大衆が描かれなかったことはそのままシン・ゴジラにおける政治性の欠如という論点につながる。政治を求めるのは国民である。国民の描写が無ければそこに政治は生まれない。

 

おそらくシン・ゴジラは、丁寧な取材を重ねたであろう、有事対策におけるテクニカル・メカニカルな部分に焦点をあてて描写したかったのであろう。だが私には、その代償としてナニか大きなものを失ったように思えてならないのである。

 

 

4. ”抵抗”と”団結”なきシン・ゴジラ

 

ここにきて論点は最初に挙げた3つの批評の差異に戻ることになる。

 

前述したように、シン・ゴジラでは、大衆は序盤にちょっとした描かれなかった。しかし、大衆が暗示的なものとして作中の描写に組み込まれていたという視点も説得力を持つ。

 

北守氏のようにゴジラを国家の象徴(リヴァイアサン)と捉え、切り捨てられた地方の人々や震災被災者の人々の集合体と捉えることは妥当だろうか?そして、一歩進めてそれを社虫氏のように抵抗権の発露と捉えることは可能だろうか?

 

 

抵抗権の歴史は古く、近代国家の成立と時期を同一にするといっても良い。そして、それは現在の国家の正当性をも理論付ける、社会契約説と密接な関連性がある。最も完結に抵抗権について述べているアメリカ独立宣言をみてみよう。

 

We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness.

That to secure these rights, Governments are instituted among Men, deriving their just powers from the consent of the governed, That whenever any Form of Government becomes destructive of these ends, it is the Right of the People to alter or to abolish it, and to institute new Government, laying its foundation on such principles and organizing its powers in such form, as to them shall seem most likely to effect their Safety and Happiness. Prudence, indeed, will dictate that Governments long established should not be changed for light and transient causes; and accordingly all experience hath shewn, that mankind are more disposed to suffer, while evils are sufferable, than to right themselves by abolishing the forms to which they are accustomed. But when a long train of abuses and usurpations, pursuing invariably the same Object evinces a design to reduce them under absolute Despotism, it is their right, it is their duty, to throw off such Government, and to provide new Guards for their future security.

 

United States Declaration of Independence, 1776

 

 

重要な点は、抵抗権は単に支配者に抵抗するというだけのものではないということだ。

 

”団結”無き”抵抗”は、ただの反逆、復讐、破壊衝動である。団結は、将来の国家を作り出すというプロセスの中で決定的な役割を果たす。団結があり、そして既存の支配者を打ち倒した先に共同体(将来の国家)を築き上げる展望があるからこそ抵抗権は必要であり、認められる。なぜなら、抵抗権の理論的要請は、自然権を保障しない(できない)政府を打ち倒して、自然権を保障する政府に作り変えるところにあるからである。抵抗は手段に過ぎない。目的は国家に人民の自然権を保障させるところにある。

 

かつて、冷戦期において多くの被植民地の国が、抵抗と支配からの脱却を御旗に一斉に独立を果たした。しかし、その大部分のケースにおいて、”団結”というプロセスを省略したがゆえに、現在にも続く問題を抱えている。統合に取り残された民族的マイノリティに対する迫害・虐殺。専制的な独裁者の台頭。軍部によるクーデタ―。多くの被植民地国において、独立とは宗主国に対する抵抗と脱却を意味するものではなかった。彼らが目撃したのは、宗主国が占めていた地位を新たな政治的エリートが埋め変えたものに過ぎなかった。

 

 

”団結”が適切に描かれた”抵抗”の物語は、非常にエモい。インディペンデンス・デイの演説しかり、アメリカ独立宣言然り、フランス革命然り。

 

 

www.youtube.com

 

なぜ”抵抗”の物語が美しく、そしてこんなにも心を揺さぶれるのか。それは、抵抗こそが、我々の心を団結させ一つに統合させる力をもっているからである。近代国家の成立以降の中で最も強いエネルギーをもっている原初の祀り。それこそが”抵抗”である。

 

”抵抗”の物語は美しく、抗い難く、絶対的である。だからこそ、多くの国家は抵抗の物語とナショナリズムを融合させた。独善的であるからこそ、国家を支える支柱となった。*1

 

ゴジラにそのような物語が内包されていただろうか。そうは思えない。ゴジラを動かしていたのは怨念、怨嗟、復讐である。それらの欲望が原動力になって破壊活動を行う怪物。そこに独立宣言やインディペンデンス・デイにみられる、崇高かつ美しい抵抗権の発露を見出すことは断じてできない。 

 

 

おそらく北守氏は、ゴジラの破壊の先に生産性がなにも無いことにうすうす気付いていたに違いない。ゴジラの”反逆”の末に新しい国家を作る展望が見えなかったからこそ、ゴジラは「内戦」に負けなければならなかったし、ゴジラ=抵抗権という視点を採用することはできなかった。

 

しかし、私に言わせれば、ゴジラに対処する主人公たち=専門家集団も同様に、リヴァイアサンたりえない。この作中で描かれているのはリヴァイアサンではない。国家ですらない。プライベートを一切持たない人間=部品の集合体である装置である。

 

国民が描かれなければ国家も描くこともできない。国家は人民が自由意志に基づく社会契約を結ぶからこそ意味と存在意義を持つ。国家の命令に忠実に従う道具から構成される共同体は、国家の皮をかぶったおぞましいナニカである。

 

 

5. 終わりに

 

ゴジラは人々が団結した象徴になりえない。ゴジラは破壊しかしないからである。ゴジラの後に日本をスクラップ&ビルドで立て直すのもゴジラはないし、作品の主人公格たり国家の部品でもある専門化集団でもない。それらは作品で描かれなかった大衆である。ゴジラという災害によって政治的きずなを断ち切られた人たちが、再び団結し新しい日本を作る。最後の一番大事な役目を、一番描写を省略してきた人たちに任せるなんて、あまりにも無責任ではないだろうかシン・ゴジラの感想はこれに尽きる。

 

 

ここで「シン・ゴジラでは抵抗と人々の団結が描かれなかった」と結論付けて批評を終わらせてもいいかもしれない。しかし、私が今回気になったのは、「”抵抗”における”団結”という視点の欠如」の問題の根深さである。シン・ゴジラは氷山の一角にすぎない。知識人でさえも誤認した”抵抗”の概念。この視点で諸作品を観たとき、ラノベ、小説、ドラマ、アニメといった媒体を問わないポリティカル・フィクションというジャンルにおいて、「抵抗と団結」を適切に描写した作品は日本ではまず見受けられない、もしくは受け入れられないという絶望的な事実がある。この点について、次の記事で詳しく取り上げてみたい。

*1:だからこそ、”抵抗”の物語は危険でもある。

#ところで艦これ厨は滅ぼされねばならない というタグを見かけたので、他の戦略ゲー厨も滅ぼしてみようと思う。②civilization編

hanasoe.hatenablog.com

前回の続き。ようやく本題。

 

civilization

幾多の人の睡眠時間を削り、浪人生と留年生を生み出し続けてきたcivilizationシリーズ。

ゲームデザインの天才シド・マイヤーによって生み出された、ターン制戦略シミュレーションゲームの金字塔。

このゲームの面白さは、人類の歴史という膨大な蓄積から、無駄な部分をそぎ落とし、ゲームの軸としてエミュレートしている所だと思う。したがって、ゲームを構成する要素が極めて史実に近いような錯覚を受ける。簡潔にいうと、civilizationで世界史が学べちゃうぞ☆と思い込みやすいのである。ここにcivilization厨を滅ぼす必要性があるのだ。

civilizationに対する最も基本的な反論は「2000年間も一人の統治者によって一貫した政策をとり続けた国なんてねーよ」というものである。まぁこれはゲームなので仕方がない。むしろプレイヤーが介入できなくて、数ターンごとに政策が強制的に変わるゲームだったらそれでそれは面白そうだが、ここまでははやらないだろう。プレーヤーが絶対的な指導者として一国を率いていく以上、どうしても現実の忠実なエミュレートにはならない。

これは戦略ゲーであるが故の構造的欠陥だと考える。しかしここではcivilizationの他の欠陥について指摘したい。これはcivilizationゲームデザインの根底が基にしている一種の「体系的知識(史観)」であり、プレイヤーは暗黙のうちにこれに了承し、説得されているのだ。

 

civilizationの根本的な欠陥は、歴史の流れが一本道であることにある。すべての国家(プレイヤー)はみな一様の進歩を遂げ、そこに文明ごとのボーナスやプレイスキルという早い・遅いという違いはあれど、その流れ自体は絶対的である。テクノロジーツリーを見てほしい。テクノロジーツリーこそが、civilizationに横たわる、直線的な史観を示している。あるテクノロジーを研究するためには、前のテクノロジーを研究する必要があり、ひとつ飛ばしなんかはできない。しかし現実には、テクノロジー研究にそのような確固たる流れは存在しないのである。例えば、アステカ・マヤといった新大陸の文明は、鉄器を発見することはなかったが、その他の分野(例えば天文学や数学、建築学など)では当時のヨーロッパに迫るほどの進歩を見せていた。現実にはひとつ飛ばしやひょこっと先端的な発明ができることがある。もうちょっと発明がうまくいっていたら、今日の技術がまるで変わっていた、なんて例も歴史のIFとしては面白い(チャールズ・バベッジの蒸気コンピュータなど)。

 

civilizationにおける、時代の流れもまた問題である。例えばIVでは、太古→古典→中世→ルネサンス時代→産業時代→現代→原子力時代→情報時代といった一本道を、すべての文明が通ることになる(滅びなければ)。しかし世界中見渡しても、この流れが当てはまるのはおそらくヨーロッパだけだろう。中央アジアの国やインドネシア奥地など、首都から離れてみたら古典時代と変わらない生活をしているところも世界中にあるし、一国でも古代と現代が共存しているようなグラディエーションに富んでいる。

封建制に特徴される中世においても、それが近代の直前にあったのは日本とヨーロッパだけである*1。例えば中国では、古代の周王朝のときに封建制が見られた。そこから秦が統一を成し遂げるわけだが、その後近代に入るというわけでもないのである。このように時代や技術が直線的に配置されている史観は、一時代前にはポピュラーなものであった。特に日本の場合は、ヨーロッパ諸国と同じように封建制に特徴付けられる中世があったという理由から、その後の明治維新のときに、他のヨーロッパと同じような文明国になることができるのだ、という自国の発展の正当化にも用いられたのである*2

特にその史観に影響を与えたのがマルクス主義である。マルクスは社会における富の生産と蓄積の形態に注目し、そのバランスが崩れたときに社会は変化するのだ、と説いた。そしてその変化は一律であり、すべての社会は同じプロセスをたどるとした。彼は、最終的には資本家が跋扈する資本主義のバランスが崩れ、社会主義革命が起こり、どの国でも、階級のない共産主義に移行すると主張した。われわれがcivilizationで目にする史観は、このマルクス史観から最終段階の共産主義を抜いた亜種である。シド・マイヤーが共産主義者だったかどうかはわからないが、彼がこういった史観に影響を受けていたのは明白であろう。

中世のキリスト教神学においては、天地創造は神によって完結しているため(世界は完璧に創られた)、新しいことを発明することはないとされた。なぜなら、すでに神が発明(あるいは発明を予期)しているからである。したがって、人間がしているのは神によって規定された世界の「発見」である。これと同じようなことがcivilizationにも言える。civilizationにおいては、まるで神が行っているかのように、すべてがシド・マイヤーによって規定され、発明が予期されている。そしてプレイヤーが毎回行っているのは「発見」あるいは「再発見」である。直線的なマルクス史観が、マルクスが批判した宗教の教義と似ているのは、皮肉以外の何ものでもないだろう。

 

また、一度発見したテクノロジーを「忘れる」ことがないのも、civilizationのアンリアルさを加速させている。現実には、例えばローマ軍の軍事的技術は、一度帝国の崩壊とともに失われたものの、1千年紀をかけてヨーロッパに蘇った。絶頂期のローマ軍は、同時期の他の地域の軍隊とは比べ物にならないほど、軍隊の組織・運営に関する高度なノウハウを会得していた。1000年以上後、オランダ独立戦争の際に、スペイン帝国という当時の最強国のひとつに対抗するためにオランダ人たちが行ったのは、ローマ時代の軍事的ノウハウをその時代に蘇らせることであった。オランダ人たちがローマをコピーして生み出したノウハウは、その後グスタフ・アドルフの改革などを経て、「軍事革命」と呼ばれる16~17世紀の一大転換となった。そしてこの軍事革命こそが、その後の西ヨーロッパ諸国の世界の他の地域に対する絶対的な軍事的優位性につながっていくのである。

 

この出来事をcivilization風に表現すれば、古代でありながら軍事テクノロジーを近代相当まで取得した文明が滅び、千年後に2~3の文明が一つ二つ飛ばしでそのテクノロジーを取得し、その後他の文明に対して絶対的優位に立つというカオスな状況になる。そもそもcivilizationでは、そこまでの軍事テクノロジーを持ちながら蛮族(古代文明相当)の侵入により滅んでいった文明を想定できないであろう。現実では国の国力や安定性というのは膨大な変数によって成り立つ複雑なものであり、定式化はできないものだが、civilizationにおいては資源・テクノロジー(とそれに基づく軍事的ユニットの質)・軍事的ユニットの量という単純な変数で決ってしまうからである。もっともこれはゲームとして文明やユニットの強弱がはっきりしていないと、結果の予測ができなくなる(=一貫した政策がとれなくなる)*3というデメリットをなくすための処置であるから、仕方のない部分でもある。

 

上の変数の単純化という観点とも重なるが、ゲームデザインのベースを唯物史観にするメリットは、ゲームから偶然性をできるだけ排除することにある。もちろんマップはランダム生成であり、隣に侵略嗜好の強い文明*4が存在するなど初期配置によるある程度の偶然性はあるだろう。しかしその場合も、すべての文明が「よーいドン!」で一律にスタートし、その方向性も一定なため、例えば、隣の国が未知の技術を発明し瞬く間に滅ぼされただとか*5、海を渡ってやってきた奴らの病原菌によって国が崩壊しただとか、そういった偶然性に基づく”詰み”の状態を排除して、ゲーム的に面白くしているのである。

 

上記の議論をまとめると、civilizationの根底にあり、そして有害なのは、前回話に出てきた艦これのような「断片的知識」の集積ではなく、一時代前の「マルクス史観」という「体系的知識」である。今日の歴史学においては、このような直線的史観を見直す動きも出ており、時代遅れのものになっている。civilizationにおいては、ゲームを面白くするため、その時代遅れのマルクス史観をベースにしている。もしこの史観を無批判に信じ、世界の歴史のcivilizationの中のように捉えなおすciv厨がいるのであれば、彼らを滅ぼさなくてはならないであろう。

#ところでciv厨は滅ぼされねばならない

 

次はトータル・ウォーシリーズやります。

 

*1:エチオピアも、封建制に特徴づけられるものがありますが、近代化がいつなのかと言われると微妙すぎる

*2:もちろん、そういった正当化は、他のアジア諸国(特に中国)では中世を経験していないから近代化は不可能なのだ、という優越感形成とも表裏一体である。

*3:例えばA文明とB文明の同時期の重装歩兵が戦った際に、引き分けではなくどっちかが圧勝するが、それを前もって予測できないという極めて不安定な状況になる。

*4:みんな大好きモンちゃん

*5:ヒッタイトに滅ぼされたメソポタミア都市国家の例。もっとも、ヒッタイトの強さは鉄器にあるのではない(当時の鉄は希少だったので金並みに高価で広く用いられなかった)という説もある。いずれにせよ、civilization流の、テクノロジーをひとつの変数として国家の強さを規定する考えが、現実の歴史から見ると的外れであることがわかる。

#ところで艦これ厨は滅ぼされねばならない というタグを見かけたので、他の戦略ゲー厨も滅ぼしてみようと思う。①

デデン!

togetter.com

ずいぶん前の話なので、出遅れた感満載なのだが、こういうまとめを見つけたので記しておく。

長い話が嫌いな人向けに要約すると、

艦これオタク「艦これの二次創作やってると歴史を学ぶことになるから、手軽に正しい史実を学べるんだよね~」

歴史クラスタ「そんなわけあるか。艦これの知識はあくまで軍船の知識であって断片的。史学という学問レベルに昇華するには広い知見、包括的解釈が必要」

というやりとり。

私的にはぐうの音もでないほどの正論だと思うのだが、発言者の言い方や「滅ぼす」という力強いワードもあいまって、賛否両論になったのであった。

(戦前の書物ならいざしらず、現代において小生とかやたら古めかしい文調でかかれたものでまともなものに出会ったことがないので、個人的には「思ふ」とか「ならぬ」とかを使っている文は地雷だと思っている)

タグの「ところで艦これ厨は滅ぼされねばならない」についても、大カトーが言ったことがある、というだけで使っているので、その背景や文脈をダブルミーニングにする、というようなわけでもなく、センスがないと思うし、

もしかしたら、大カトーの「関係ない話につなげて連呼しまくる」ことを愚かだと暗喩していて、発言者自身が愚かであるという自虐ネタに走っているのかと感心したがそうでもなく。

マジレスがきたら、「いやいやこれはローマの政治家の有名な言葉で・・・。滅ぼすなんてのはネタですよ。」みたいに予防線張るダセェ態度なのかな?と思ったが結局のところマジレスにはマジレスで返し。

何のためのその言葉だー!って感じだ。

 

「正しい史実」とは?

以上少し批判的に書いたが、内容に関しては説得力があるので、そこは誤解しないでいただきたい。

ここで終わらせて、「今回の件から得るべき教訓は、発言の内容だけではなく、形式にも気を配るべきだ」と総括して本題に移っていいのだが、少しだけ補足しておく。

上記の議論はなにもすべての艦これファンが体系的な歴史を知らないといっているのではなく、たとえば軍船の設計からは、「どのような設計思想で作られたものか=この軍船をどう活用しようとしたのか」という戦略思想レベルの話も見えてくるし*1、大戦前の軍船の設計に大きな影響を及ぼしたワシントン海軍軍縮条約をかじれば、その時代の国際協調主義や統帥権問題など、国際・国内情勢と絡めた議論もできるようになるだろう。あくまでここで主張されているのは、軍艦のスペックや戦歴調べただけでドヤるなよ、ということなのだ。

もっとも、御方が言う「体系的知識」を得たところで何か特別なことがあるのか、といわれるとそうでもない。上で議論されたのは「断片的知識」が「体系的知識」を殺す例だが、逆の例をお目にかけよう。

今は薄まってきたようだが、20世紀前半あたりに、日本いや世界の歴史学において、マルクス主義のブームがあった。マルクスが主張した唯物史観は、歴史解釈において多大な影響を及ぼすのだが(これは後に詳しく触れる)、それ以外にも共産主義的思想にはまる歴史学者を生み出した。彼らの頭の中では資本主義は帝国主義に不可分的に結びつき、資本主義国は好戦的で悪であるという「体系的知識」があった。戦後、朝鮮戦争が勃発した際に、彼らは「共産国北朝鮮が資本主義米国の傀儡である韓国に攻撃するはずがない、好戦的なのは資本主義国であって断じて共産国ではない」と思い込み、「朝鮮戦争は韓国が北朝鮮に侵攻して始まった」と事実とは間逆の推定をしてしまい、それを鵜呑みにして「史実」としてしまったのである。

他の資料に当たればはっきりとわかる間違いであるのに、彼らのバイアスがそれらをシャットアウトし、事実をゆがめてしまった。これこそが、「体系的知識」が「断片的知識」を殺す例である。

なにも歴史学をDISっているわけではなく(このようなことは国際関係論や政治学一般にもある)、ここでいいたいのは、「正しい史実」なんてものはないということである。「Historical events,,, are all about interpretation. (歴史的事実は、すべて解釈の問題である)」という言葉があるように、すべては体系的知識による解釈の問題であり、そこから逃れることはできないということだ。

ではどうするか。大事なのは「事実」を解釈する「体系的知識(パラダイムと言い換えてもいいと思う)」の厚みと説得力を吟味すること、さらにパラダイムに反する事例があった際に誠実にその事例に適応するようにパラダイムを変化させることである。これは難しいことである。稀代の天才、アインシュタインですら最後まで「神はサイコロを振らない」といって量子力学を否定した。しかしこれができないと、前の朝鮮戦争の例が示すように、学問は単なるイデオロギー発散の場となってしまうだろう。

 

さて、非常に前置きが長くなったが、この記事の目的は、「歴史を『断片』として切り取って消費させるやり方は艦これだけではなく他のゲームでもあるのだから、艦これ厨を滅ぼすのなら、それらのゲーム厨もまとめて滅ぼさないと不公平だろ!」というものである。というわけで、筆者が触ったことのある戦略ゲーが、どのくらい歴史を断片化しているのか、また史実から離れているのかについて分析していきたいと思う(ちなみに筆者はそれらのゲームの大ファンであるので、アンチ活動ではないことだけご留意いただきたい)。

 

思ったより長くなったので、後編につづく。

*1:特に、このサイトの『魚雷は大人になってから』は軍艦のスペックと海軍の戦略を絡めて書いてある。興味のあるからはぜひ。

のうりんポスターはエロいのか?~『絵画を"読める"俺が分析してやるぜ』~

美濃加茂市観光協会がつくった、アニメ「のうりん」のキャラクターをモチーフにしたポスターが炎上しているらしい。

togetter.com

碧志摩メグに続きフェミVSオタの第二ラウンドというわけなのだが、

フェミ「碧志摩メグ同様、女性をバカにしている!女性蔑視だ!」

オタ「(実在の人物じゃ)ないです」

フェミ「ポスターがエロい!ゾーニングぐらい考えろ!」

オタ「何処がエロいんですか?」

フェミ「巨胸を強調している!」

オタ「巨乳がエロいのかよ!それこそ巨乳の女性に失礼だろ!(反転攻勢)」

フェミ「頬を赤らめている!ま る で セ ッ ク ス を 求 め る 表 情 

 という馬鹿みたいな大喜利があり、さらには、「絵を見る力が足りないよ」

 

とい言い出す人もおり、阿鼻叫喚な状態。

リバタリアン的には「知らないよ(半笑)」って感じなんだが、絵を読むことが一般教養であるヨーロッパ上流貴族に生まれて、絵画をどうよって読むか知っている(Know how to read the paintings)俺としては、まぁ少し読み方を授けてやろうと思った次第で。

では早速物件を見に行きましょう。

 

のうりんのポスターはこれだ!(デデドン!)

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うーんこのへんがセクシー、エロい!

なんて茶番はいいとして、いろいろな要素から分析してみることにする。

 

①顔

人物画における基本中の基本は、「人物の目線」である。例えば、歴史でよく見る近代ヨーロッパの「○○講和会議」なんかの絵であったら、登場する人物の目線を追っていけば、だれが一番偉いのか(注目されているのか)容易に判断できる。このポスターでは、モチーフは絵画を見る人に目線を当てている。従って彼女は明確にオーディエンスを意識しており、「何かを訴えている」ようにも感じられる。彼女はどのようなメッセージをオーディエンスに送っているのだろうか・・・。

次に赤面していることに注目する。赤面する表情となると、用途は限られてくる。しかしこれを性的に興奮している表情だというのは早計だ。赤面は恥じらいの発露でもある。モチーフの顔は、もちろんアヘ顔ではなく、トロ顔でもない。眉を見てほしい。八の字に下がり、瞳のつり具合を相まって困っているようにも見える。さらに口が固く閉じていることにも留意すべきだ。これは緊張を意味している。セックスを求める表情(いわゆる発情顔)はリラックスして、目がタレており、だらしなく口が開いているものが多数である。*1 また舌を出す、ウィンクするいったサインも含めることが多い。少なくとも、このような緊張かつ困っており、恥らっている女性がセックスを求めているというのは、そうそうある場面ではない。

 

②胸

次にもっとも物議をかもした部分、胸である。言うまでも無く巨乳である。だが巨乳であることはエロいことと同義ではない。問題は乳をどのように表現するかによる。ところでこの画像を見てほしい。

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あともう一つ、競艇のポスターもあったが見つからなかった。これは先方から「エロくない」という言われたポスターである。肌面積は圧倒的少ないのに、エロくないとはどういうことであろうか?

ここはアリストテレスのテロス(目的論)から考えてみたい。水着のテロスは海で着ることである。従って、水着と海の組み合わせは自然であり、そこにエロさは介在しない。しかし、水着が海から出て、例えばローションマットと共に着られたらどうだろうか?エロい。なぜなら、海が無い以上、水着のテロスは海で着ることではなく、ローションマットの存在によって、テロスが「セックスすること」に上書きされたからである。つまり、のうりんポスターの胸と服が、どのようなテロスを持っているかによってエロさは変わってくるというこである。

モチーフは巨乳であり、胸の谷間が見えている。胸の谷間=エロではないが、問題は服にある。この作業服は機能上、ボタンによって首元まで服を閉めることができ、むき出しの胸を隠すことが出来る。つまり作業服のテロスは胸を隠すことである。にも関わらずモチーフはボタンを留めずに胸を露出させている。ということは、モチーフは胸を露出させなければならない特段の理由があるという事である。この特段の理由がセックスアピールであった場合、エロさからは言い逃れできないことになる。

熱いから胸を露出させたというのはどうだろうか?しかしその根拠は乏しい。まずモチーフは汗をかいていない。それに熱いのであれば、腕まくりして半袖にするだろう。にも関わらずモチーフはカフスにあたるボタンをきっちり締めている。おかしい。胸元はだらだらに着崩しているのに、袖はきちんと着ている、これがこの絵の違和感でもある。消去法でいくと、胸の強調はセックスアピールになりそうだが・・・。

 

③腕

胸を強調させているというといわれる腕である。確かに三次元では、胸の下で腕組みをすることによって胸を強調させるというテクニックがある。*2 だがちょっと待ってほしい。重力によって胸が垂れてしまう三次元ならともかく、二次元においては、乳袋という謎の空間や、ブラなしでも胸が上を向いていることから、胸のあたりは無重力になっているのではないかという研究がある。したがって、二次元においては、胸の下で腕組みをしなくても、自然と胸は重力に打ち勝ち、上を向き強調されるのである。なので二次元において腕を組むというテロスは胸の強調ではない。むしろここは心理学を応用して、腕を組むという仕草は、自分を抱きしめることによって不安から身を守る、という効能があることを提起したい。腕を組む仕草は、不安や緊張といったストレスフルな状況において、自分を守るという自己防衛行動の一種でもある。*3 さらに指に注目してほしい。右手の指は不自然に伸び、左手の指は不自然に曲がっている。ようは緊張で力がこもっている。ここからわかることは、この仕草は計算されたセックスアピールというよりは、計算されていない緊張の仕草であるというこである

 

④総括

以上の事から、緊張・恥じらい・不安・胸のはだけという特徴を"絵画を読む"とこによってとらえることが出来た。ここから導き出されるのは何であろうか?緊張・恥じらい・不安・・・恥ずかしい何かを我慢しているように見える。なんであろうか。

トイレを我慢しているというのはどうだろう?腰も折られてるし、その線はありそうだ。しかしその説明だと胸をはだけている意味が良くわからない。

何かを我慢しているという路線は維持したい。我慢しながらも、胸をはだけるという行為が必要である何か・・・。胸をはだける必要のある我慢・・・胸・・・トイレ・・・おしっこ・・・胸・・・・母乳!!??!?

そうである。これはトイレを我慢しているのではなく、母乳が出そうなのを我慢しているのだ。おそらくモチーフは経産婦であり、これから子供に母乳をあげるのであろう。胸をはだけているのは子供にミルクを与えるためである。いくら授乳は必要な行為だと言えども、人前で胸を露出させるのには抵抗があるのだろう。恥じらいと緊張の表情は、オーディエンスに前で授乳を行うことに起因しているのだろう。

たしかに人前で胸を出すのは恥ずかしいことである。しかし赤ちゃんはミルクなしには死んでしまうのであり、授乳は赤ちゃんの生命を維持する必要不可欠な行為である。従って、我々オーディエンスは授乳行為を示すこのポスターに性的なものを覚えるとこによってモチーフに更なる恥ずかしさを与えるべきではない。授乳とは生命をつなぐ神聖な儀式なのであるから、この絵を性的な目で見ることは、昔からの生命の育みを汚す、卑劣な行為である。このポスターをエロいという人々こそ、煩悩に取りつかれているのではないだろうか。Q.E.D

以上、閉廷、終わり!

(ちなみに僕はのうりん全く知りません)

というより描いた人が「萌え絵ってこんなもんだろ~」って適当に胸を強調させて赤面させた絵を描いちゃった可能性の方が高いような・・・

*1:Googleで画像検索してみてほしい。

*2:特に海外では、これをやっていると誘っていると思われる可能性が高いので巨乳の女性はむやみに腕を組まないことをお勧めする。

*3:私も所在なさげな時は、腕の置き場に困ってつい腕を組んでしまう。

Charlotte所感~物足りなさは何故~

遅きに失した感はあるが、改めて前期アニメであるCharlotteの感想を述べてみたい。

個人的には”まあまあ”の作品であったと思う。

Charlotteの評価は半分に割れているといった感じか。中でも↓この人の考察はなかなか興味深いものであった。

togetter.com

作品のテーマとかメッセージとか、そういう「全体の構成」を分析対象にしている人は、やっぱりCharlotteにおける”アンバランスさ”が目につくよう。

確かに「これからも能力者は狙われ続ける」→「そうだ世界中の能力を奪ってしまおう」という流れは急展開過ぎたし、一番大変な部分を一話でやってしまったのはなぁ・・・と思うところはある(ジャンプならそこから世界中のやつらと異能バトルという題材で12冊ぐらいまで漫画描けるんじゃ・・・)。

そう考えると、Charlotteのテーマや解釈はかなりの部分で受け手に任されている、と考えることもできるであろう。ただその割には”ぼやかして”描かれているというより、詳細を考慮していないという部分の曖昧さの方が多いような気がする。古典文学によく見られる”解釈の余地”というよりは、「単に時間が無くて描けませんでした!」という感じをうける。端的に言えば、より深いところまで考察しても面白さが無いように感じるのである。

全体の構成でダメなら個別の部分はどうであろうか?主人公が妹を失って自暴自棄になっている回はなかなか良かった。ああいう”放蕩息子”を描くのはかなり感動させるし、友利がずっといたという伏線もよかった。

周りではあまり受けが良くないのだが、前半部分の「ひたすら能力者を探す回」は面白かったように感じる。特に「超能力は自分のなりたいものと関係がある」(この設定って最後忘れられていましたよね?)という部分から、心の傷を明らかにしていくという作業は見ていて面白かったし、マクロ的な”世界改変”に挑むのではなく、あのままミクロ的な日常を描いていればよかったのではとなおさら思う。

あとCharlotteで象徴的なのは音楽である。私は残念ながら最近の曲はすべて同じものに聞こえてしまう人間なので、そこに意味を見いだせなかった。ポストロックとか、結構面白そうな概念も出てきたので、バンドやっている人ならそのあたりと物語のリンクも見えたのかもしれない。

 

私はよくアニメの全体を評価する指針として、①最後まで見れたか、②もう一度見たいか、という二つの視点を持ち出す。なぜこの二つの視点が大事かについて説明しよう。

言うまでも無く、この二つはアニメを作り出す理由そのものだからである。アニメは視聴者に最後まで見てもらわなければならない。面白いと思わせて円盤を買ってもらわなければならない。

アニメを芸術だとみなしている方々は、私のこのような資本主義的な解釈を嫌うであろう。現に私は前回、芸術的価値と商業的価値を混同してしまう危険性に関して記事を書いた。だが、今回私は「芸術的価値」と「商業的価値」を分離した上で、「商業的価値」の中から、芸術性の関係のある部分を「芸術的価値」に組み込み直すことで、「芸術概念」の再構築を行いたいと考えている。

私が条件に出した第一の基準、つまり最後まで見てもらう、というのは実はそんなに難しいことではない。毎回をジェットコースターのような展開にすれば良い。よくハリウッド映画(アクション)でスリルとサスペンスに満ちていてあっという間に2時間が終わってしまったというのがあるだろう。若しくはどんでん返しにつぐどんでん返しという小説もある(ジェフリー・ディーバーあたり)。最近のアニメでいうとウィクロスもこれに近かったのを覚えている。とにかく次のページが読みたくなる、次話が見たくなる。

いわば視聴者を一種の「中毒状態」にしている作品たちだ。だが、残念ながら読み終わってみたり見終わってみると、「何だったっけ?」となりやすいのがこの種の作品でもある。ドラマチック性を保ったまま、全体を整えるのは存外に難しい。個々のシーンだけが強調されて、通してみた時のメッセージ性が損なわれてしまうからである。

このような作品に芸術性はあるのだろうか、という疑問を投げかける時、それはより大きな問題を提示している。このような中毒性によってコンテンツを消費させる行為、それはポルノに他ならないからである。「芸術」は「鑑賞」されるのに対して、「ポルノ」は「消費」される。ではポルノは芸術なのであろうか?これはまた機会を改めて考察してみたい。

もし第一の基準しかクリアしないのが「ポルノ」であるならば、第二の基準、つまり「もう一度見たい」を引き起こすのはポルノの限界である一回性を克服した作品だという事になる。もちろんすこしアダルトなアニメで、「円盤では内臓まで見えます」状態であったらポルノとしての一回性は克服していないであろう。しかしそうでない部分でもう一度見たいのであるとすれば、そこで芸術的価値と資本主義的価値の統合が起きるのではないであろうか、という提起をしてみたい。

ではCharlotteはどうであったか?私は最後まで見たが、もう一度見たいかと言われればNOを言うであろう。つまりはそういう作品であったのかもしれない。少なくとも、全体的一貫性の無さが、私を物足りなく感じさせ、もう一度見るという気を起こさせないのは確かである。