オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』感想


大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

 

 



 

全体として

 

題名や印象に反して、ある種の鉄人政治やスノビズム礼賛的な鼻につく態度は少なかった。知性人(著作の中では『少数者』と呼ばれているもの)と大衆を対比して、後者を批判するという構図は、現在の我々から見れば、『少数者』の無謬性が無いようされる哲人独裁であり、非常に独善的で危険なように見えるが、著作の中ではそこまで独善的には捉えられない。むしろ大衆の台頭、そしてその反逆を不可避の社会現象として捉え、その処方箋を提示するよりも、病理の診断をすることを目的としているため、「大衆の権利を制限して~」のような思想にはつながらない。

 

 

ある(古典的に)名著とされる著作を読むときに重要な点は、当時の社会的状況や文脈を加味して吟味する必要があるということだと私は思う。名著とされるものが現在も読まれている理由は、現在においても変わらない、時代普遍的な意義がその本の中に含まれているからであるが、書いた人本人は、時代を超えた普遍的な原則・原理を提示するものとして書いたというよりも、短・中期的な時代の要請に従って書いたとことの方が圧倒的に多い。

 

例えば、重商主義批判としての面を踏まえずにアダム・スミスを読んでも意味がないし、むしろそういう読み方は、著作の中では想定されていないサービス業においても「神の見えざる手」が働く(とスミスは主張している/主張するであろう)という誤った解釈を導き出す。したがって、アダム・スミスを正しく評価するためには、当時の重商主義政策批判という文脈は不可欠なものとなってくる。

 

 

これをオルテガに当てはめて考えてみると、当時の中間層台頭という社会現象を抜きにして『大衆の反逆』を読むことは望ましくないだろう。オルテガは、少数者が独占的に支配していた享楽が、もはや大衆がその担い手になった(そして少数者も大衆の参加を前提とした)ということをエピソード的に語るところからこの本を始めている。疑いようもなく、これは中間層―—原語的な意味でのブルジョワジーである―—の台頭に他ならないし、この中間層が19世紀後半から20世紀にかけて果たした社会的役割については強調しすぎても足りないということは無いだろう。中間層はその後の民主主義の一番基礎的なユニットになったのだから。

 

であるならば、中間層の消滅、格差の拡大と富めるものと貧するものへの二極化が叫ばれる現在の先進国において、オルテガの『大衆』概念と彼らが引き起こす問題をそのまま当てはめることは望ましくない。現在先進国で叫ばれている民主主義の危機は、中間層が台頭することによって起こっているのではなく、中間層が消滅することによって起こっているからだ。私はむしろ、オルテガの本はファシズム批判として読まれるべきだと思う。オルテガの中で描かれている『大衆』とどこかアーレントのいう「アイヒマン」的な人物像を想起させる。そういう意味では、『大衆の反逆』は数年後に来たファシズムの防波堤としての役割の方が強い。