プラメモ13話感想~旅立ちには花を添えよう~

プラメモ13話終わりましたね~。

いやー神アニメじゃないですか!(熱い手のひら返し)

魔の4話・5話を乗り越えて、うまくまとめましたね。最後に泣いてしまった人も多いんじゃないでしょうか?以下感想とちょっとした分析をしていきます。

 

艦これとの違い

 前期クソアニメの覇権を争った「艦これ」。恵まれた製作費・作画からの糞のようなシナリオに世間は震撼した。その発端となったのが4話の如月ショックだったと思う。プラメモもまた、5話にギフティアが暴走するという謎の話があり、そのまま落ちるかと思われた。

良く持ちこたえた。

 アニメ艦これがついぞシリアス路線から逃れられなかったのに対して、プラメモはいち早くシリアスを捨て、アイラとのいちゃつき&別れを軸にしたことによって、うまくまとめることが出来たように思える(こうしてみると余計に5話なんだったのって感じになるなー)。

一方アニメ艦これは、日常回が好評だったものの、すぐのもとのシリアスに戻ってしまった。擁護すると、もちろんシリアスが悪いというわけではない。しかし、アニメ艦これはシリアスをやるには情報量が少なすぎた。一回も映らない提督、行方をくらます提督、理由を説明しない提督、夢の内容で吹雪をひいきする提督・・・。てか全部提督がらみだな。あと大淀のスパイ疑惑も挙げとくか・・・。ここまで情報量が少ないと、視聴者としては「こいつら何やってんだ?」となってしまう。シリアスもキチンと構成を練らないとシュールになってしまうのである。

 プラメモはそういったシリアスを5話で終わらせたのが良かった。あのままシリアスをやるのであれば、なぜギフティアが存在するのか・ギフティアはどうのように扱われているのか、というマクロ的な視点が必要になってくる。さすがに残り7話で描ける内容ではないし、ツカサはそういう社会問題を解決するような主人公ではない。そういったマクロ視点を捨てて、ターミナルサービスの同僚という小さなコミュニティーを物語の根幹に据えたことによって、アイラとツカサの関係をミクロ的に、個人と個人の関係として丁寧に描き切れたのが、艦これとの違いだと思う。

 

「誰かを遺して往く気持ちというのは、一体どういうものなのだろう―」(黄昏のシンセミアより)

 誰かが死ぬ、若しくは永遠の別れとなる、というホスピス系の物語と接するたびに、いつも思うことがある。「誰かを遺して往くのと、誰かに先立たれてしまうのはどちらの方が辛いのか」という問題である。プラメモ13話では、これまで無理に笑ってきたツカサが泣き、これまで泣いてきたアイラが笑うという逆転の物語になっている。しかし、12話を見る限り、ギフティアにも『死』の恐怖がありそうだ。*1 という事は、アイラは「ツカサとの別れ」の他にも「みんなとの別れ」、そして「自分との別れ」にも直面することになる。「アイラとの別れ」との直面だけで済むツカサとは大違いだ。その上で泣いているツカサを慰めるアイラはまるで聖女のようである。

我々はみな、遺された側の人間だ。当たり前である、我々は生きているのだから。だから我々は都合よく、「遺すより遺された方が辛い」と考えるが、本当に辛いのは遺す方かもしれない。人がホスピス系の物語に接するとき、その人がどう感じるかは、その人が実際の人生においてどのような別れを経験してきたかに依存する。多くの人にとって、人生で最初の別れは祖父母やその親である。日本は長寿大国であり、天寿を全うするような人達は、不思議とやりたいことをやりきった人が多く、彼らは満ち足りたように死ぬことが多い。だから我々は、「彼らは怖くはなく、彼らに遺される我々の方が辛い」のであると錯覚する。しかし生きたいと願いながら死んでいった人や、あまりにも早すぎる死と接した人達は、180度反対の感じを受けるであろう。言うまでもなく、遺す側の人間は、遺された人達の心配と、自分の死の恐怖両方を受け入れなければならない。それは大きな苦しみを生むであろう。であるからこそ、最後の観覧車でのアイラの言葉は、重みがあるのである。

 

プラメモの構造は、特攻に似ている。

これって悪い意味ではないんですよ。ちょっとこの議論が気になったので。

togetter.com

ここでは「特攻隊員は喜んで犠牲になったわけではなく、無能で横暴な戦争指導者たちによって殺されたも同然なのに、よくも無邪気に感動できるな」という視点から、特攻隊員がいだいた気持ちよりも、特攻における社会的悪を重要視している。しかし、私がコメント欄で述べている通り、特攻を強いた社会を悪として批判しながら、特攻隊員の振る舞いに感動することはできる。前者は社会的な文脈から特攻を見ているが、後者は一個人からの視点で特攻を見ているという点で、可分である。

これと同じように、プラメモにおいても、マクロ的な「悪」と、ミクロ的な「感情」を分けることが出来るように思われる。プラメモにおいて、ギフティアの扱いは、数少ない情報から察すれば、間違いなく「悪」である。10年で寿命が切れ、それに脅えなければなない。心があるのに商品として扱われる。それなのに自分が暴走した時は周りにものすごい迷惑をかける、という自由意思があるんだが無いんだがよくわかないが、人間と比べたらものすごい劣悪な扱いを受けているように思える。あえてこのあたりはぼやかされてきたが、もし十分な時間(2クール目)とプロットがあるのであれば、そういった社会悪をフォーカスすることも可能であろう。しかし、例えアイラとの別れがどうしようもない悪意によって引き起こされたとしても、アイラのツカサの別れは意味があり、ギフティアに対する不義な扱いはその価値をなんら損なうものではないことに留意すべきであろう。そういった点でツカサの悲哀と、特攻隊員の大切な人の悲哀は重なり、アイラの覚悟と特攻隊員の覚悟は重なるような気がするのである、スケールはものすごく違うけど。

 

デウス・エクス・マキナは必要だったか?

一応この物語はハッピーエンドではない。最後の最後でギフティアの寿命が延びる、なんて奇跡が起こったら笑えたのだが、さすがにそれはしなった。しかし、逆にあそこで奇跡が起きていたら、それまでのアイラやツカサの思いが損なわれてしまうだろう。そういった意味で、ある意味予定調和の中、アイラの寿命を受け入れて幕引きしたのは英断だったといえる。エンディングにはアイラがいないが(もしかして最後のは生まれ変ったアイラだった?)、それでもツカサは満ち足りた顔をしている。ハッピーエンドではないが、バッドエンドではない。アイラとの思い出は、ツカサの中で生きており、美しい幕引きを迎える。

でもね、個人的に「別れ」を主題にした物語ってちょっと卑怯だなって思うことがあるんですよ。今回みたいな幕引きはそれこそ古今東西のエロゲ・ギャルゲーの一エンディングにありそうじゃないですか。「別れ」って丁寧に描けば「泣き」が約束されると意味で、物語のプロットにおけるデウス・エクス・マキナに近い気がする。「別れ」を押し出されれば、ひたすらに物語が美しくなってしまう、ってのはちょっと味気ないと私は感じる。ようするに私は綺麗ごとは嫌いなのである。これは完全に選好の話になってしまうが、綺麗ごとをひたすら美しく描くよりも、現実に近いものの中、少しの非現実的な救いがある物語の方が好きである。

梨江「そういう、美しい嘘もあっても・・・あの。」

新十郎「美しいものを、美しいものとして終わらせる、か。」 

新十郎「俺たちには縁のない話だ。ずっと堕ちている途中なんでね。」

Un-GO 1話』

 

*1:寿命をあらかじめ決められてて、しかもそれに恐怖を覚えるように設計されているのはギフティアの人権侵害だと思います!