なぜ「本当に優秀なら女性なら会社はひきとめるよ」は間違っているのか。

先日、友人二人と飲みに行った際、男女平等の話になった。そこで育休と産休の話になった際、友人の一人からこんな言葉が飛び出した。

「本当に優秀な女性なら、会社の方から引き止めるから、現状の制度でも問題ないよ」

そくざに私ともう一人の友人は否定したのだが、酒が入っていたこともあり、具体的にこの発言がどう間違っていなのか説明しなかったので、改めて自分の中で整理しようと思う。

言うまでも無く、「選択肢が理論上あるという状況」と、「その選択の実現可能性」は全く別個のものである。人はみな、生まれた瞬間は無限の選択肢を持っている。だからといって、オリンピックで金メダルをとりたいと思った人がすべて金メダルを取れるわけではない。先ほどの発言は、100メートル走で、一方の人はスポーツシューズを履いているのに、もう一方の人は鉛の靴を履いている状況で、鉛の靴を履いている方に、「君が本当に優秀なら、スポーツシューズを履いてる人よりも早くゴールできるはずだ」というようなものである。疑いもなく、これは少しおかしい。

フェミニストたちが問題とするのはレースの結果ではなく、もしろなぜ鉛の靴を履かざるを得ないかというそのプロセスにある。男性はスポーツシューズを履いたまま、子供と家庭が持てる。しかし、女性は、鉛の靴を履かなければ、家庭と子供を持つことが出来ない。一方で、女性は、子供と家庭をあきらめれば、男性のようにスポーツシューズを履くことが理論上可能であるという事実がある。

この理論上選択できるという状況が、背景にある男女の著しい不平等を隠している。これは何も男女の問題に限らず、社会上のあらゆる弱者‐強者の関係に当てはまるものである。

選択の自由が誰にでも開かれているという建前がふりかざされるとき、選択そのものが抑制になる。不平等を無視する口実になる。「だって彼らは自分でその道を選んだじゃないか。ほかの道も選べたのに。」、と。

シーナ・アイエンガー『選択の科学』 

 選択肢があるという建前は、選択肢がとりやすいかとりにくかという社会上の不平等を隠し、あらゆる問題を安易な自己責任論に収着させる。だが、見かけ上の平等を振りかざし、その背景にある不平等を無視するというのは、社会正義に寄与しない考え方だ。確かに、すべての不平等を考慮にいれることは出来ない。それは共産主義の再来である。しかし、少なくとも不平等を不平等だと認識し、「自己責任論」を振りかざす前に、なぜそういう状況に至ったのかについて理解することは、より良い社会を目指していくうえでの一歩となるだろう。