作品の「鑑賞 / 作品の「消費」 アニメを消費しよう。

最近「消費」という言葉がマイブームである。

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まぁいろいろな是非はおいておいて、本来一般的な観点でいう消費財でないものに対して「消費」という言葉を使うのは少し違和感がある。例えば、「アニメを消費する」と言った際、どのような印象を受けるだろうか。「アニメを見る」と普通に表現した場合とどう違うのか。

本来「消費」とはニュートラルな表現であるはず。それは経済活動における行動様式を指す。この世のほとんどは生産と消費によってまわっていることを考えれば、日常のあらゆる場面で我々は「消費」活動をしている。しかし、特異なのは、「消費」とは本来金銭を介して行われるものであるが、最近は無料の物、いわば経済活動の枠組みから外れたものに対しても使うらしいのである。例えば「アニメを消費する」といったふうに。アニメとは本来無料のコンテンツであるから、金銭を介する「消費」という言葉とはそぐわないのではないか。

本来消費財でないものに対して「消費」という言葉を使うのは、その物がまるで消費財であるかのように錯覚させてしまう。消費財というのは日々の生活で使用される、いわば代替可能のモノである。このモノという概念を芸術作品に当てはめると深刻な齟齬を引き起こす。「消費」という言葉を使われた物は、代替可能な非常に低俗なモノとして再定義されてしまう。このことから、それ自体に価値がある物や芸術性が高い物に対して「消費」という言葉を使うと、何か低俗なことをしているぞ、といった印象を受ける。

「消費」の対極にあるのが「鑑賞」である。就活やバイトの履歴書で、趣味の欄に音楽鑑賞や絵画鑑賞という言葉を書いた人も多いだろう。「消費」と違って、「鑑賞」は芸術性が高いものに使われる。「アニソン鑑賞」とはあまり言わないが、「クラシック鑑賞」という言葉よく聞くであろう。ある物に「鑑賞」という動詞をつけると、その物がまるで芸術性の高い、高尚な物であるという印象を受ける。

以上を踏まえたうえで、「○○を消費する/鑑賞する」といった場合、○○が芸術か否かという問題に直面するだろう。というよりその言葉の使い分けによって、○○に対する態度を規定しているように思える。例えば「俺はアニメを鑑賞している」といった際には、「俺」はアニメを芸術だと思っている、という意味であるし、「あいつは萌豚でアニメを消費しているんだ」と言うときには「あいつ」はアニメを芸術だと思っていないという印象を受ける。

個人的な意見を言わせてもらえば、作品の高尚さや低俗さなんて概念はナンセンスである。我々は高尚なもの、奥が深いものを芸術だなんだともてはやすが、なぜ高尚さによって芸術性を定義できるのか、理由がよくわからない。人間は昔からそのような思い込みにとらわれていたらしく、古代ギリシャの頃から喜劇よりも悲劇の方が高尚とされていたらしい。しかし坂口安吾が言う通り、悲劇にも喜劇にも芸術性があり、人々を楽しませるということは、奥深さとか高尚さとかと同じくらい価値があるものである。そもそも作品に高尚・低俗のレッテルを張ることすら無理なのかもしれない。

したがって私はその用語に高尚さと低俗さを内包する「消費」や「鑑賞」のどちらも使いたくない。アニメは「見る」、これが一番ニュートラルな表現であり、十分だ。

まぁこれは私の意見なので、奥深さや高尚さが芸術性を増すんだと思いたい御人はそう思えばいいのだろう。しかし心にとどめておくべきなのは、高尚な作品を理解できる俺は高尚、もしくは奥深さを理解できないあいつは低俗で劣っている、などという考えを持ってはいけないということである。いや仮にある作品が高尚だったとしても、高尚なのは作品であって鑑賞者じゃねーから。「アニメを消費する」なんてのも相手をDISる意図で言っていることが多いよなぁ・・・。

美しいもの愛する私は美しいと、人間は思いがちである。しかし我々は美しくはなく醜いのである。

「彼らは確かに死んだ。だが俺は生きている、あなたも。」

「何が言いたい…!?」

「人は、他人のために命を捨てられることがある。だからといって、俺やあんたが偉いわけじゃない。偉いのは…、美しいのは…、死んだ彼らだけだ!!俺達は卑小で、愚かで、猥雑で、この地面に這いつくばって必死に生きている、それだけだ…!!」

UNーGO 第5話