売れている=面白いか? Charlotteの例から考えてみる。

面白いアニメ」や「面白いラノベ」の基準はなんであろうか。

「面白さ」というのは個人の主観に依存するものであるから、一概に言えないかもしれない。しかし「売れているアニメorラノベが面白い」というのはちょっと違う。

「売れているラノベ」や「見られているアニメ」はただ単に多くの人が関与しているだけで、それ以上の意味を指すものではない。

わかりやすい現象に、ブームがある。ブームこそ、面白さと商業的成功がいかにかい離しているかを示す好例なのである。ブームは、「売れています!」とか「今はやりです!」とかいう文言を躍らせて、購買者にコンテンツの内容を吟味させないうちに購入させるものである(もちろんブームがありながらも面白い作品も多く存在する)。

ブームに火をつけるには、いろいろな下準備が必要である。もっとも多くの労力がさかれるのは、広告活動である。

今期アニメから例示してみよう。今期アニメで最も広告に力を入れてきたアニメの一つであるCharlotteの期待値はとても高いものであった。私の記憶では、2015冬アニメの時点から、Charlotteの広告が深夜アニメのCMに挿入されていた。さらに製作者の名前という広告効果もある。麻枝准という名前は、Key作品を買ったことのある人なら聞き覚えがあるだろう。私自身Charlotteには期待していたし、実際に現在も面白いと思う。

ここで大事なのは、今現在私がCharlotteを面白いと感じているという事ではなく、私が「Charlotteを見る前からCharlotteが面白いと感じていた」ことである。ここがポイントだ。つまり、売れているというのは面白いからではなく、面白そうだと感じているからである。面白さというは、全部読み終わった、あるいは見終わったときに初めて結論を下せるものであって、見る前、買う前には結論を下せない。これは芸術作品上致し方のない性質である。だから我々は、何かを選ぶとき「面白そうだ」という直観に従って選ばざる得ない。

問題なのは、その「直観」は作れるという事である。心理学の世界には単純接触効果と呼ばれるものがある。これは、コンテンツの内容の意味に問わず、単純に名前を見たり聞いたり(接触)した回数が多い程それに好感をいだく、というものである。私はCharlotteのCMは少なくとも10回程度は見ている。あの15秒で何が伝えられるのか、という疑問は良くあるが、答えは「名前だけ伝えればよい」のである。内容に関係なく、CMなどで見聞きする回数が多い程、コンテンツに対する期待は高まっていく。

CMや制作陣に知識のない外国人が選んだhttp://myanimelist.net/のランキングを見ると、より一層面白い傾向が見えてくる。このランキングではCharlotteのランキングが低めである。もちろんこれは日本と外国の感性の違いという面もあるが、ギャングスタ、オーバーロードworking!!!といったアニメが上位に食い込んでいるのは面白い。これらのアニメのタイトルは英語に訳してもそれなりに意味が通じるものであり、その意味はアニメの内容に一致している。一方Charlotteとは単なる女の人の名前であり、予備知識なしに題名だけからどのようなアニメか推測するのは難しい。前提知識の無い状況において、アニメの題名がどれだけ影響を及ぼすかを示す好例であろう。そう考えると、ラノベにありがちな「○○な件」とかタイトルですべてがわかる名前付けもなかなか戦略的であると言えよう。

以上ブームは作れるという話をしてきたが、ここからは根本的な命題に立ち返って、面白さ(芸術的価値)と商業的利益と考察してみたい。この二つはある程度の相関はあるかもしれないが、因果関係は無い(芸術的価値があるから売れる、若しくは売れたから芸術的価値があるということは無い)。もちろん芸術家は自分の作品で食っていかなければならないので、ある程度の商業的利益は必要である。しかし、例えばクラシック音楽家や画家の生涯を見てみると、なんと生前に評価を受ける人が少なかったことか! 彼らの生涯は不遇であった。不遇であったが、彼らの作品は不滅の光で輝いている。ここの商業的利益と芸術的価値のかい離がある。シューベルトショパンレンブラントなどをみていると、芸術が逆境の中から生まれるという言説には納得してしまいそうにもなる。

とはいえ、最終的には芸術的価値は鑑賞者の主観に依存する。従って自分の思った通りの評価を下せばいいのである。しかし、もし「この本は何万部売れた!」とか「このアニメの円盤は何万枚売れた」という事実で作品の評価をしてしまうのであれば、それはなんと悲しいことであろう。