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旅立ちには花を添えよう

アニメ・ラノベ・エロゲを中心に考察していくブログ。たまに政治・時事のお話も。

#ところで艦これ厨は滅ぼされねばならない というタグを見かけたので、他の戦略ゲー厨も滅ぼしてみようと思う。②civilization編

hanasoe.hatenablog.com

前回の続き。ようやく本題。

 

civilization

幾多の人の睡眠時間を削り、浪人生と留年生を生み出し続けてきたcivilizationシリーズ。

ゲームデザインの天才シド・マイヤーによって生み出された、ターン制戦略シミュレーションゲームの金字塔。

このゲームの面白さは、人類の歴史という膨大な蓄積から、無駄な部分をそぎ落とし、ゲームの軸としてエミュレートしている所だと思う。したがって、ゲームを構成する要素が極めて史実に近いような錯覚を受ける。簡潔にいうと、civilizationで世界史が学べちゃうぞ☆と思い込みやすいのである。ここにcivilization厨を滅ぼす必要性があるのだ。

civilizationに対する最も基本的な反論は「2000年間も一人の統治者によって一貫した政策をとり続けた国なんてねーよ」というものである。まぁこれはゲームなので仕方がない。むしろプレイヤーが介入できなくて、数ターンごとに政策が強制的に変わるゲームだったらそれでそれは面白そうだが、ここまでははやらないだろう。プレーヤーが絶対的な指導者として一国を率いていく以上、どうしても現実の忠実なエミュレートにはならない。

これは戦略ゲーであるが故の構造的欠陥だと考える。しかしここではcivilizationの他の欠陥について指摘したい。これはcivilizationゲームデザインの根底が基にしている一種の「体系的知識(史観)」であり、プレイヤーは暗黙のうちにこれに了承し、説得されているのだ。

civilizationの根本的な欠陥は、歴史の流れが一本道であることにある。すべての国家(プレイヤー)はみな一様の進歩を遂げ、そこに文明ごとのボーナスやプレイスキルという早い・遅いという違いはあれど、その流れ自体は絶対的である。テクノロジーツリーを見てほしい。テクノロジーツリーこそが、civilizationに横たわる、直線的な史観を示している。あるテクノロジーを研究するためには、前のテクノロジーを研究する必要があり、ひとつ飛ばしなんかはできない。しかし現実には、テクノロジー研究にそのような確固たる流れは存在しないのである。例えば、アステカ・マヤといった新大陸の文明は、鉄器を発見することはなかったが、その他の分野(例えば天文学や数学、建築学など)では当時のヨーロッパに迫るほどの進歩を見せていた。現実にはひとつ飛ばしやひょこっと先端的な発明ができることがある。もうちょっと発明がうまくいっていたら、今日の技術がまるで変わっていた、なんて例も歴史のIFとしては面白い(チャールズ・バベッジの蒸気コンピュータなど)。

 

civilizationにおける、時代の流れもまた問題である。例えばIVでは、太古→古典→中世→ルネサンス時代→産業時代→現代→原子力時代→情報時代といった一本道を、すべての文明が通ることになる(滅びなければ)。しかし世界中見渡しても、この流れが当てはまるのはおそらくヨーロッパだけだろう。中央アジアの国やインドネシア奥地など、首都から離れてみたら古典時代と変わらない生活をしているところも世界中にあるし、一国でも古代と現代が共存しているようなグラディエーションに富んでいる。

封建制に特徴される中世においても、それが近代の直前にあったのは日本とヨーロッパだけである。例えば中国では、古代の周王朝のときに封建制が見られた。そこから秦が統一を成し遂げるわけだが、その後近代に入るというわけでもないのである。このように時代や技術が直線的に配置されている史観は、一時代前にはポピュラーなものであった。特に日本の場合は、ヨーロッパ諸国と同じように封建制に特徴付けられる中世があったという理由から、その後の明治維新のときに、他のヨーロッパと同じような文明国になることができるのだ、という自国の発展の正当化にも用いられたのである*1

特にその史観に影響を与えたのがマルクス主義である。マルクスは社会における富の生産と蓄積の形態に注目し、そのバランスが崩れたときに社会は変化するのだ、と説いた。そしてその変化は一律であり、すべての社会は同じプロセスをたどるとした。彼は、最終的には資本家が跋扈する資本主義のバランスが崩れ、社会主義革命が起こり、どの国でも、階級のない共産主義に移行すると主張した。われわれがcivilizationで目にする史観は、このマルクス史観から最終段階の共産主義を抜いた亜種である。シド・マイヤーが共産主義者だったかどうかはわからないが、彼がこういった史観に影響を受けていたのは明白であろう。

中世のキリスト教神学においては、天地創造は神によって完結しているため(世界は完璧に創られた)、新しいことを発明することはないとされた。なぜなら、すでに神が発明(あるいは発明を予期)しているからである。したがって、人間がしているのは神によって規定された世界の「発見」である。これと同じようなことがcivilizationにも言える。civilizationにおいては、まるで神が行っているかのように、すべてがシド・マイヤーによって規定され、発明が予期されている。そしてプレイヤーが毎回行っているのは「発見」あるいは「再発見」である。直線的なマルクス史観が、マルクスが批判した宗教の教義と似ているのは、皮肉以外の何ものでもないだろう。

また、一度発見したテクノロジーを「忘れる」ことがないのも、civilizationのアンリアルさを加速させている。現実には、例えばローマ軍の軍事的技術は、一度帝国の崩壊とともに失われたものの、1千年紀をかけてヨーロッパに蘇った。絶頂期のローマ軍は、同時期の他の地域の軍隊とは比べ物にならないほど、軍隊の組織・運営に関する高度なノウハウを会得していた。1000年以上後、オランダ独立戦争の際に、スペイン帝国という当時の最強国のひとつに対抗するためにオランダ人たちが行ったのは、ローマ時代の軍事的ノウハウをその時代に蘇らせることであった。オランダ人たちがローマをコピーして生み出したノウハウは、その後グスタフ・アドルフの改革などを経て、「軍事革命」と呼ばれる16~17世紀の一大転換となった。そしてこの軍事革命こそが、その後の西ヨーロッパ諸国の世界の他の地域に対する絶対的な軍事的優位性につながっていくのである。

この出来事をcivilization風に表現すれば、古代でありながら軍事テクノロジーを近代相当まで取得した文明が滅び、千年後に2~3の文明が一つ二つ飛ばしでそのテクノロジーを取得し、その後他の文明に対して絶対的優位に立つというカオスな状況になる。そもそもcivilizationでは、そこまでの軍事テクノロジーを持ちながら蛮族(古代文明相当)の侵入により滅んでいった文明を想定できないであろう。現実では国の国力や安定性というのは膨大な変数によって成り立つ複雑なものであり、定式化はできないものだが、civilizationにおいては資源・テクノロジー(とそれに基づく軍事的ユニットの質)・軍事的ユニットの量という単純な変数で決ってしまうからである。もっともこれはゲームとして文明やユニットの強弱がはっきりしていないと、結果の予測ができなくなる(=一貫した政策がとれなくなる)*2というデメリットをなくすための処置であるから、仕方のない部分でもある。

 

上の変数の単純化という観点とも重なるが、ゲームデザインのベースを唯物史観にするメリットは、ゲームから偶然性をできるだけ排除することにある。もちろんマップはランダム生成であり、隣に侵略嗜好の強い文明*3が存在するなど初期配置によるある程度の偶然性はあるだろう。しかしその場合も、すべての文明が「よーいドン!」で一律にスタートし、その方向性も一定なため、例えば、隣の国が未知の技術を発明し瞬く間に滅ぼされただとか*4、海を渡ってやってきた奴らの病原菌によって国が崩壊しただとか、そういった偶然性に基づく”詰み”の状態を排除して、ゲーム的に面白くしているのである。

 

上記の議論をまとめると、civilizationの根底にあり、そして有害なのは、前回話に出てきた艦これのような「断片的知識」の集積ではなく、一時代前の「マルクス史観」という「体系的知識」である。今日の歴史学においては、このような直線的史観を見直す動きも出ており、時代遅れのものになっている。civilizationにおいては、ゲームを面白くするため、その時代遅れのマルクス史観をベースにしている。もしこの史観を無批判に信じ、世界の歴史のcivilizationの中のように捉えなおすciv厨がいるのであれば、彼らを滅ぼさなくてはならないであろう。

#ところでciv厨は滅ぼされねばならない

 

次はトータル・ウォーシリーズやります。

 

*1:もちろん、そういった正当化は、他のアジア諸国(特に中国)では中世を経験していないから近代化は不可能なのだ、という優越感形成とも表裏一体である。

*2:例えばA文明とB文明の同時期の重装歩兵が戦った際に、引き分けではなくどっちかが圧勝するが、それを前もって予測できないという極めて不安定な状況になる。

*3:みんな大好きモンちゃん

*4:ヒッタイトに滅ぼされたメソポタミア都市国家の例。もっとも、ヒッタイトの強さは鉄器にあるのではない(鉄は希少だったので金並みに高価で広く用いられなかった)という説もある。いずれにせよ、civilization流の、テクノロジーをひとつの変数として国家の強さを規定する考えが、歴史から見ると的外れであることがわかる。