Charlotte所感~物足りなさは何故~

遅きに失した感はあるが、改めて前期アニメであるCharlotteの感想を述べてみたい。

個人的には”まあまあ”の作品であったと思う。

Charlotteの評価は半分に割れているといった感じか。中でも↓この人の考察はなかなか興味深いものであった。

togetter.com

作品のテーマとかメッセージとか、そういう「全体の構成」を分析対象にしている人は、やっぱりCharlotteにおける”アンバランスさ”が目につくよう。

確かに「これからも能力者は狙われ続ける」→「そうだ世界中の能力を奪ってしまおう」という流れは急展開過ぎたし、一番大変な部分を一話でやってしまったのはなぁ・・・と思うところはある(ジャンプならそこから世界中のやつらと異能バトルという題材で12冊ぐらいまで漫画描けるんじゃ・・・)。

そう考えると、Charlotteのテーマや解釈はかなりの部分で受け手に任されている、と考えることもできるであろう。ただその割には”ぼやかして”描かれているというより、詳細を考慮していないという部分の曖昧さの方が多いような気がする。古典文学によく見られる”解釈の余地”というよりは、「単に時間が無くて描けませんでした!」という感じをうける。端的に言えば、より深いところまで考察しても面白さが無いように感じるのである。

全体の構成でダメなら個別の部分はどうであろうか?主人公が妹を失って自暴自棄になっている回はなかなか良かった。ああいう”放蕩息子”を描くのはかなり感動させるし、友利がずっといたという伏線もよかった。

周りではあまり受けが良くないのだが、前半部分の「ひたすら能力者を探す回」は面白かったように感じる。特に「超能力は自分のなりたいものと関係がある」(この設定って最後忘れられていましたよね?)という部分から、心の傷を明らかにしていくという作業は見ていて面白かったし、マクロ的な”世界改変”に挑むのではなく、あのままミクロ的な日常を描いていればよかったのではとなおさら思う。

あとCharlotteで象徴的なのは音楽である。私は残念ながら最近の曲はすべて同じものに聞こえてしまう人間なので、そこに意味を見いだせなかった。ポストロックとか、結構面白そうな概念も出てきたので、バンドやっている人ならそのあたりと物語のリンクも見えたのかもしれない。

 

私はよくアニメの全体を評価する指針として、①最後まで見れたか、②もう一度見たいか、という二つの視点を持ち出す。なぜこの二つの視点が大事かについて説明しよう。

言うまでも無く、この二つはアニメを作り出す理由そのものだからである。アニメは視聴者に最後まで見てもらわなければならない。面白いと思わせて円盤を買ってもらわなければならない。

アニメを芸術だとみなしている方々は、私のこのような資本主義的な解釈を嫌うであろう。現に私は前回、芸術的価値と商業的価値を混同してしまう危険性に関して記事を書いた。だが、今回私は「芸術的価値」と「商業的価値」を分離した上で、「商業的価値」の中から、芸術性の関係のある部分を「芸術的価値」に組み込み直すことで、「芸術概念」の再構築を行いたいと考えている。

私が条件に出した第一の基準、つまり最後まで見てもらう、というのは実はそんなに難しいことではない。毎回をジェットコースターのような展開にすれば良い。よくハリウッド映画(アクション)でスリルとサスペンスに満ちていてあっという間に2時間が終わってしまったというのがあるだろう。若しくはどんでん返しにつぐどんでん返しという小説もある(ジェフリー・ディーバーあたり)。最近のアニメでいうとウィクロスもこれに近かったのを覚えている。とにかく次のページが読みたくなる、次話が見たくなる。

いわば視聴者を一種の「中毒状態」にしている作品たちだ。だが、残念ながら読み終わってみたり見終わってみると、「何だったっけ?」となりやすいのがこの種の作品でもある。ドラマチック性を保ったまま、全体を整えるのは存外に難しい。個々のシーンだけが強調されて、通してみた時のメッセージ性が損なわれてしまうからである。

このような作品に芸術性はあるのだろうか、という疑問を投げかける時、それはより大きな問題を提示している。このような中毒性によってコンテンツを消費させる行為、それはポルノに他ならないからである。「芸術」は「鑑賞」されるのに対して、「ポルノ」は「消費」される。ではポルノは芸術なのであろうか?これはまた機会を改めて考察してみたい。

もし第一の基準しかクリアしないのが「ポルノ」であるならば、第二の基準、つまり「もう一度見たい」を引き起こすのはポルノの限界である一回性を克服した作品だという事になる。もちろんすこしアダルトなアニメで、「円盤では内臓まで見えます」状態であったらポルノとしての一回性は克服していないであろう。しかしそうでない部分でもう一度見たいのであるとすれば、そこで芸術的価値と資本主義的価値の統合が起きるのではないであろうか、という提起をしてみたい。

ではCharlotteはどうであったか?私は最後まで見たが、もう一度見たいかと言われればNOを言うであろう。つまりはそういう作品であったのかもしれない。少なくとも、全体的一貫性の無さが、私を物足りなく感じさせ、もう一度見るという気を起こさせないのは確かである。