旅立ちには花を添えよう

アニメ・ラノベ・エロゲを中心に考察していくブログ。たまに政治・時事のお話も。

まおゆうは「物語のイデオロギー化」なのか?:まおゆう評~改訂版~

2016/10/08 改定しました。読み直してみましたが、改定前のクオリティが低かったので。

 

ずいぶん古い話題ですが、自分の中では消化しきれてなかったので少し。

 

まおゆうはなぜ批判されるべきなのか1:意見のまとめ - 見たり聞いたりしたこと

まおゆうはなぜ批判されるべきなのか2:イデオロギーとしての「まおゆう」 - 見たり聞いたりしたこと

 上記ブログの少なくとも10回は読んでみたのだが、未だに部分的に何を主張したいのかわからないのだが(特に二者択一のくだりって関係あったか?)、要点をまとめると、

  • まおゆうは物語であるが、現実の歴史を題材にしている。
  • 物語は「決まった流れ」に沿って動いているかで面白さが決まる(!?)
  • 人は現実を物語と同じように受け入れたくなった。その場合現実を物語の「決まった流れ」のように解釈するのが「イデオロギー」である。
  • まおゆうでは、「あの丘の向こう側」は絶対的な正義として描かれており、そこ至るプロセスや意志が無条件で肯定されているという点で、イデオロギー的であり、危険である。

<外在的批判と内在的批判>

批評家に多いのだが、彼のように芸術や物語を外部のフレームワーク(多くの場合で政治イシュー)によって批評する外在的批判が隆盛を極めているように思われる。まぁ昔から、文学者の多くは政治的主張がはっきりとして人も多かったし、文学者かつ思想家というのはありふれているので、今更目くじらを立てるわけでもないが、カントが政治哲学と芸術哲学を分離しようとした試みをこうもないがしろにされると、寂しいものがある。

togetter.com

↑最近だとこんなんばっか。

PC(ポリティカル・コレクトネス)の議論でも述べたが、政治イシューにからめての批評はある意味お手頃というか、ある種のテンプレートになりつつある。もはや批評家たちは内在的批判を行わないのかと思うくらいだ。

私個人の批評の仕方としては、まず作品が「面白かったか」「つまらなかったか」を分けてから、なぜ面白かったのか、つまらなかったのを考える。その段階で外在的なものに頼ることもあるが、あくまで私の第一感(ファースト・インプレッション)を落とし込むための材料として使うだけである。

対して、外在的批判主義者は、まず作品が「フレームワークに当てはめて問題ないか」を考える。その後「フレームワークにハマっていたから面白い」「フレームワークにハマっていなかったらつまらない」とする。要するに彼らにとって芸術作品は、感動するものではなく、事例研究のようなものなのだ。最近では「面白い」「つまらない」ということさえ言わない批評も多い。

 

<まおゆうはプロパガンダ芸術なのか>

紹介したまおゆうの批評もまさに外在的批判に王道、といった感じだ。一言で批評を表すなら「まおゆうは危険だ」である。「危険」? 面白いでもつまらないでもなく「危険」?

まず、彼の批評を順に見ていこう。

 

しかし、「おもしろいか、おもしろくないか」だけで本当に作品の批評とは済んでしまうものなのか?こういうヒートアップしている時に、例えを出すのはあんまり良くないこととされていますが、敢えて例えを出すならば、世の中には「プロパガンダ芸術」というものがあるのはご存じでしょうか?例えば有名なものとしては『國民の創生』とか『意志の勝利』とかがありますし、例えばディズニーなんかも戦時中にこんなアニメがあります。

http://www.dailymotion.com/video/x555gw_victory-through-airpower-trailer-19_shortfilms

これらは作品として素晴らしいことは否めません。ですが、じゃあ「面白いから全て良い」のか?そんなことはありません。例えば『國民の創世』は黒人差別を肯定し、『意志の勝利』はナチスを美化し、そしてディズニーのアニメは日本への無差別爆撃を肯定しました。それら全部、「面白いから可」なのでしょうか?

彼はここでエンターテインメントとプロパガンダにおける融合を危険視している。たしかに、面白ければ無条件に批評を免れると言うものではないだろう。

一方で、

あるいは、『シンデレラ』とか『白雪姫』というような物語が、良妻賢母として生きるよう女性を教育するために広められた、という議論もあります。つまり、物語の中で一定のイメージを描き、しかもそれに一定の価値を与える、そういう物語から、人々がその一定のイメージを一定の価値を持って見るようになるということは、特にそれに対する批判的な見方が一切ないような場合に、ありうることなわけです。そのような場合、物語が人々にある一定の「見方」を与えているのではないか?という批評は、当然あってしかるべきなのではないでしょうか。

(太字は原文ママ

「それに対する批判的な見方が一切ないような場合に」という条件が示されている。でも、現代で「批判的な見方が一切ない」場合なんて存在するか?

価値観が多様化し、様々な主義思想・情報へのアクセスが容易になった現代においては、芸術であれ、政治イシューであれ「批判的な見方が一切ない」状態はありえないと思わる。たしかに戦前日本やソ連などの、情報へのアクセスが遮断され、国民の思想をコントロール下におこうとする社会での、芸術的作品におけるプロパガンダ性に対する批判は、意義を有するだろう。しかしその場合も、その批判は、「社会を善くする」という芸術を超えた効用を見込まれて有益とされるのであり、芸術そのものの効用に関する批判ではない。ここが、まさに外在的批判の罠である、外在的批判者によく見受けられるのが、「芸術作品について語っているつもりなのに、いつもまにか政治問題を語っている」という状況なのである。

いずれにせよ、多様性を内包した現代社会で、ある特定の思考様式をベースにした作品が危険だとは思えない。それはレイプもののAVを見るとレイピストになり、暴力ゲームをすると暴力性が増す、という言説並に暴論である。*1

現代において排斥されるような思考をベースにした芸術を見たからとって、鑑賞者がその姿に共感するかどうかは別の話である。言うまでも無く、プロパガンダ映画を見たからと言って自動的にその思想に染まるわけではない。彼の仮定はまるでスターリンの映画を見た人が共産主義者になるから危ない、といっているようなものだ。

 

だが、彼はここで、

また更に言えば、そもそもなぜ敷居氏はこの物語を「面白い」と感じたのか?ある物語がフィクションであり、思想と全く関係ないと仮に言えるとしても、それを受容する読者の側は、当然社会的に生きて、社会の中で、「何を面白いものと感じるか」という感性も形成されるわけです。とするならば、その面白いと感じられた物語から、人々の感性、そしてそれを形作ってきた社会も考えることが出来るわけです。エンターテイメント派は「ただのエンターテイメント」と言いますが、ただのエンターテイメントとして人々に受け入れられるからこそ、それは考慮され、批判の対象になるんですよ。

「危ない」という批評から離れ、「面白い」と感じる感性を足がかりにすることによって、社会、強いては個人を分析することをできるとしている。ここでも芸術を従、社会を主におく、という外在的批判の問題が現れるが、他の主張に比べるとまっとうな事を言っているようにも思われる。しかし彼は、この分析をイデオロギーと絡めて論じてしまい、的を外していくのであるが、その部分はあとで再び触れることにする。

 

次に、彼はようやっと主題に入る。

まおゆうは啓蒙主義であり、問題があるんじゃないか派(啓蒙批判派)

…(中略)…

ここで重要なのが、啓蒙という立場を批判する側も、別に啓蒙される「中身」を非難しているわけではないということです。だって、それならその中身を、例えば「近代」とか「新自由主義」とか言って名指しして批判すればいいわけで、別に「啓蒙主義」なんて言葉を使わなくてもいいわけですから。

考えてみれば「啓蒙主義」というのはなかなか奇妙な言葉です。「啓蒙」っていうのは例えば「○○を啓蒙する」なんていう風に、名詞ではなく動詞として使われる言葉なんですから、でも、「啓蒙批判」においてはそこがミソになるんですね。つまり、啓蒙される「中身」が批判されるべきだから、啓蒙主義は批判されるんじゃない。そうではなく、何かを「啓蒙」するという、その行為の「形式」こそが批判されるのです。「このまおゆうを批判している人は、この物語が近代を人々に押しつけているとみなしているから批判してるけど、それは違う。」なんて馬鹿なことをエクストラレポート・ルームは言ってましたが、それがいかに馬鹿なことか分かったと思います。

まさて、ではこの物語は何が啓蒙主義的か?それは、「『丘の向こう』という正しいものがあり、人々はそれに進まなければならない」という、「正しさ」を想定する態度なのです。そこで問題となるのは「正しさ」の内実ではありません。そうではなく、それがどんなに正しいものであれ、それを「正しさ」として提示し、そしてその方向に進む正しい道がある、人々はその道を進まなければならないとする態度が、問題となるのです。」

  • 「丘の向こう」の中身自体は特に問題は無いし、関係は無い。
  • 「丘の向こう」に進まなければならないという構造(啓蒙主義)が問題。

うーん?わかったようなわからないような・・・。そもそも啓蒙主義自体が一つの思想体系なので、「正しさを押し付けるという正しさ」を示しているのであるから、「正しさ」の一体系、「丘の向こう」の内実の一つのような気がするんだが(メタの入れ子構造が認識されていない)・・・。

さらに、

ここで、「いや、でもこの物語は『丘の向こう』に行く正しい方法がどんなものかについては、一切提示していないよ?」という反論があるかもしれません。しかしそれでも「丘の向こう」の存在自体は圧倒的に「正しい」ものとして、作者に肯定されるわけです。そうなれば、そこに向かう道もあるでしょう。

いやそれは違うでしょう。「丘の向こう」は一種のデウス・エクス・マキーナで、世界の解決策で、この物語のたどり着く先ですけれども、絶対的に正しいもの、というわけではない。少なくとも光の精霊との会話で、勇者と魔王は世界を停滞から開放する子には犠牲が伴うと理解していたわですし。「丘の向こう」は絶対的に正しいものではなく、勇者と魔王の選択による結果でしょう。

 

さらにこれより前の部分で、彼は、まおゆうの「新自由主義的」側面の批判を紹介しているのですが、

例え犠牲が少数であり、それにより助けられる人が多くなったとして、でもそこで「少数の犠牲を出すこと」は起きる。しかしこの物語ではそれは「仕方がないこと」として肯定される。それはどーなの?と問うているのです。時代が進歩していくために、「優れたもの」を優遇し、そしてそれにより「劣ったもの」を切り捨てていく、そのような態度について、kagami氏は「新自由主義的」だと批判しているわけです。

あれ? これってまさに「丘の向こう」に進むための行為が無条件で肯定されている、っていう彼のさっきの主張と同一じゃありませんか。しかし彼はその行為について「啓蒙主義的」な「形式」が問題であり、「中身」が問題ではない言っているわけですが、この彼が紹介した部分では、「新自由主義的」な「中身」が問題だと言っているわけです。あれれ?混乱してきました。

彼の主張がわかりにくいのは、思想をむりやり「中身」と「形式」に分離し、語義の使用に混乱が見られるからです。彼の「形式」こそが問題だという主張は、続く文で完全な矛盾をきたします。

だって、そうやって「丘の向こう」を宣伝し、に行こうとすることによって、ホロコーストも起きてきたし、日本のアジア侵略と、そしてその帰結としての太平洋戦争も起きたんですから。それぞれにおいては当然「丘の向こう側」の内実は異なってきました。しかし重要なのは、それが正しいものとされ、そしてその「正しい」ものの内実については一切批判が許されてこなかったことが、歴史の悲劇を引き起こしてきたと言うことです。

かなり乱暴な議論です。なぜなら、例に挙げられている「太平洋戦争」も「ホロコースト」も、「丘の向こう側」に至る「形式」というより、「丘の向こう側」の「中身」自体が問題であったからです。太平洋戦争では、他のアジアの国の資源を日本人のために強奪することが「丘の向こう側」でした。ホロコーストでは、ユダヤ人を抹消することが「丘の向こう側」でした。では、「丘の向こう側」の中身が妥当な場合でも、それを正しいものとする動きは危険なのでしょうか?公民権運動や女性参政権などもまた「丘の向こう側」の一つであり、それは今日では絶対的な正しさとして認識されています。それらの正当性を疑う言説は相手にされないでしょう。では、公民権運動や女性参政権は危険だったのでしょうか?

彼が長々と述べてきたまおゆう批判は、ここにきて、「特定の思想を下敷きにしている」、めざす「丘の向こう側」の中身という一点にようやっと収束するのです。

 

だが、あらゆる名作との誉れを受ける作品は、ある種の社会的状況をテーマ、あるいは下敷きにし、明示的にせよ暗示的にせよ、「あるべき姿」としてのエンディングを描いている。まおゆうとよく似た形式の作品としては、チェーホフの戯曲があるが、それにはロシア革命前の閉塞的な社会情勢をベースに、貴族たちが没落していくさまが描かれている。だからといってそれが革命主義的で「危険」であろうか?彼はそういった「あるべき姿」を示す芸術を遠ざけようとするが、と想定するようなものだ。皮肉にも、彼の「まおゆうは危ない」という主張は、彼のブログに書かれているところの、「まおゆう」に対する意見が相当に異なるという事実にによって反証されている。

確かに、彼の意見には賛同できるところが多々ある。まおゆうは勇者VS魔王という善‐悪の二項対立を破壊したが、魔王VSシステムという新たな構図を作り出した。まおゆうは善悪の超克の物語ではなく、ただ旧来のPRG的善を新たな善にすげ替えたに過ぎなかったという指摘は正しい。だが、それは正義として描かれているのではなく、むしろ魔王と勇者の個人的な選好の結果としての新たな世界である。世界は、魔王と勇者の掲げた理想が素晴らしかったから変わったのではなく、彼らの不断の努力の結果によって変わったのだ。そういう意味で、まおゆうは勧善懲悪的ではないし、単一のイデオロギーに彩られているわけではない。むしろ異なるイデオロギーの衝突の物語とえるかもしれない。

 

 

 

 

*1:一時期は隆盛を誇ったこれらの議論だが、現在では、暴力ゲームと暴力性、ポルノとレイプの関係性は、人格形成の途中であると思われている子供においても、否定されている。詳しくはスティーブン・ピンカ著、『人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (下)』を参照のこと。