なぜお花畑の「侵略されたら抵抗しなければいい」は許されないのか?

本気で言っているのかわからないが、時折「無抵抗主義」なることを主張する人達がいる。日本が攻められても、抵抗しなければ殺されることは無いんだ、だから軍備をやめようとか、酷い時には「殺すくらいなら殺されよう」とかいうのもある。*1 個人的には、そういって言う人達のところに行ってお金をせびったら無抵抗で払ってくれるのかな、と馬鹿なことを考えたりするのだが、それはともかく、この考え方がどう間違っているか見てみよう。

 

まず「国による防衛」は、基本的には「個人の正当防衛」の類推から来ている。*2 その上で、我々は防衛の権利を正当なものとして受けいれているという事実に着目する。正当防衛によって我々が守るものを、「無抵抗主義」でも守れるのであれば、他人を傷つけないだけ「無抵抗主義」の方が優れていることになる。では、まず始めに、正当防衛によって何が守られるのかを分析する必要があるだろう。正当防衛は基本的に2つの根拠から成り立っている。

自己の保身

法益の回復

①の自己の保身とは、自分の生存権が侵されたとき、それを守るためにやむを得ず行う行為として正当防衛が認られる、ということである。

②の法益の回復とは、加害行為を不正とみなしたときに、そのままでは加害者は不正行為によって利益を得、被害者は不正行為によって損失を被るため、その傾いた天秤を戻すために行われる救済的措置の意味合いがある。

もし「無抵抗主義」が、正当防衛よりも倫理的により良い手段を提供するのであれば、その手段は①と②を満たしていなければならない(でないとそれは正当防衛の劣化版になってしまう)。しかし、お花畑さんに多い「非暴力無抵抗主義(=侵略されて国が滅んでも人々が無抵抗なら人々が殺されることはない)」は、②の法益の回復という要請をないがしろにしている。我々はただ殺されないためだけに自衛をするのではなく、加害行為によって被る損害を防ぐ、あるいは回復するために自衛をするのである。確かに、加害行為に対して抵抗しないことは、①の要件を満たし、自分の生存権を守ることが出来るかもしれない。しかし、それは加害という不正に屈したという点で不正義である。加害行為に抵抗しないことは、その不正行為を認めるという点で、不正行為にある種の正当性を与え、加害者が近い将来にまた不正を行う可能性を高めるという点で、不正義である。ここから、我々には、不正に対して抵抗しなければならない、という倫理的要請が存在するのがわかるだろう。「無抵抗主義」は、この要請を満たしていないので、倫理的に間違っていると結論付けられるであろう。

「無抵抗主義」がなぜ間違っているかの論証は簡単なのだが、カンジーの非暴力不服従は難しい。カンジーは抵抗して不正に抗うことを推奨しているという点で「無抵抗主義」とは一線を画すであろう。非暴力不服従も今後分析していきたいところである。

 

*1:デマでしたね

*2:個人の正当防衛を認めながら国による防衛を認めない立場はあり得ない。もし個人の正当防衛を認めるならば、敵国の軍は最終的には日本国民に害を与えようとしているので、個人は敵軍に対して軍という形ではなく、個別に防衛する権利が発生する。そのような抵抗はゲリラ・パルチザンの形態をとるであろう。しかし、銃規制がされているわが国で、個々人が組織された現代の正規軍と戦うのは自殺行為である。従って、国民の被害を軽減するために、外国の軍の加害行為から守れるような、組織化された軍事組織を持つ必要がある。そしてそれは自動的に、国による自衛権を肯定するようになる。