「自分は何者か」で悩む人たち

先日、若い女性がおじさんにはまってしまう心理を説明した記事を見た。これによると、若い女の人は、おじさんが「自分の知らない一面」を発見してくれることを期待して付き合うのである。自分探しの延長といったところだろうか。

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「自分は何者か」という問いはアキレスと亀パラドックスに似ている。つまり問いの設定自体が問いに答えることを不可能にしている。アキレスと亀の難問は、有限な距離を無限に分割して無限な距離にしてしまう。同じ様に、「自分は何者か」という問いは、本来「自分は何か」という問いに答えるものだが、それを「他人からどう見えるか」という問いにしてしまうのだ。

 

有名なフランスの哲学者、デカルトは「我思う故に我あり」と述べた。しかしこの文言の面白いところは、デカルトは「デカルトの存在」を証明したのに、なぜかデカルトの存在だけではなく、地球上にいる人類すべての存在をも証明したところにある。「我思う故に我あり」はものすごく主観的な言葉だが、これが名言として後世に残ると、あらゆる人に適応できる、強力な客観性を帯びたものになった。デカルトは「我」を証明することに成功したが、そのことがかえって「デカルト」がいたことを証明しようとするニュアンスを損なわせた。デカルトは「我思う故に我あり」と述べたが、本来言葉に残す必要はなかったのである。彼は思うだけで良かった。しかし、言葉にした瞬間、それはデカルトの手から離れ、無機質な哲学上の文言になってしまった。

 

そもそもデカルトは「我」の存在を疑う必要も、証明する必要もなかった。デカルトは、「我」の証明をするために、他人が必要となっていた事に気付かなかった。証明する、言葉に残す、疑う―これらすべては他人の存在を前提とする。「我思う故に我あり」は自分の存在だけで「我」を証明できるものでなかった。正確に言えば、「我を疑う他人があると推定する故に我あり」であった。

 

完全に客観を廃した主観的世界、つまり「私の世界」においては、世界は私であり、私が世界でもある。そこには私の存在を疑う必要はない。世界があるからである。世界があるということは私があるということである。同じように、そこで「自分は何者か」という問いもそこでは意味がない。自分は世界なのだから、何者でもある。

 

以上のことを哲学科の友人から聞いた時、自分の中でストンと物事が理解にはまった。私はもともと「自分さがし」や「自分は何者か」ということを考えたことはなかった。私はそれを私が単純であったからと理由づけたが、そうではなく、私はそれをする必要がなかっただけの事だった。「我は我である」や「自分は何者か」という問いは前提として他人、つまり私以外の概念を必要とする。「自分は何者か」という問いは私のうちからはこぼれてこない。「自分は何者か」とは、「他人から自分はどうみえるか」と聞いているのに等しい。しかし、これは無意味である。他人があなたを証明したり、疑ったり、規定するのではなく、あなたはあなたが規定するであるからである。「自分は何者か」という問いは、知らず知らずの内に、あなたの存在を他者の存在に従属させてしまっているのだ。