現代における「知」の渇望:サンデルブームとは何だったのか~善も正義もあるんだよ~

アニメの話ではありません。あと、長いです。

 

4~5年前であったであろうか、「ハーバード白熱教室」という名目でNHKハーバード大学マイケル・サンデルの授業を放送して以降、彼の著書「これからの正義の話をしよう」が大ブームになり、日本各地で白熱教室に準じたイベントが行われた。そのブームは下火になっているものの、つい先日には「これからの公共放送を考える」という名目で、世界の放送局の人が集まり、サンデルが司会を務めた番組が放送された。

 

しかし、今冷静になって考えてみると、当時熱狂していた層は去り、果たしてブームに乗せられ本を買った人のどれほどがサンデルの主張を理解できたのかというと非常に怪しいものである。だが、間違いなくブームは存在した。しかしそれは、彼の議論が魅力的であったというよりは、議論を深めていくそのプロセスにあった。

 

政治哲学はもともと日本人と相性の悪い学問であることを述べなければならない。日本は長らく共同体の倫理というものをマナー以上の規範として重く受け止めてきた。村八分に代表されるように、日本における共同体の規範は近代法以上に拘束力にあるものであった。戦後村社会が解体される中でも、その名残はいまだに残っている。日本は法として定める以外にも、大衆にマナーとして守らせるという方法がとれる稀有な社会でもある。*1 そのような土壌では、物事の是非は自分で考えるものではなく、親や社会から学び、適応するべきものでしかなかった。

 

やがて学のある人々が、その考えは間違っていることに気付いた。「我々が正しいと信じてきたものは、多数者の合意の結果であり、それに普遍性や正義は無かった。」それら先進的な人々は、従来の共同体的価値観から脱却することには成功したが、同時に物事の是非という概念をもぶち壊してしまった。彼らは「共同体の主観によらない、人類普遍の正義」というものを想定することが出来なかった。それゆえに、彼らは新しい物事の是非を見つけるかわりに、善悪の問題を捨て置き、利害によって物事を判断する、一種の倫理的ニヒリズムに陥ってしまった。

 

こうした見方は完全に間違っている。我々は日常の問題で、常に物事の倫理的判断を求められている。大きな社会問題―男女格差、同性婚、外国人の権利―から、小さな日常の問題―ベビーカーの是非、義実家の付き合い、友達の選び方―まで、我々は利害ではなく、倫理にのっとって判断しなければならないし、判断したがる。知恵袋、小町、ツイッターはてなを見よ。日々どれほどの物事の善悪が判断されているかすぐに理解できるだろう。

 倫理的ニヒリストたち―倫理的判断をあきらめた者たち―は、このような要請に答えていない。彼らは新しい価値基準のパラダイムを提供することに失敗した。彼らは倫理的正当性と力による正当性を同一視してしまった。彼らはパスカルが想定した通りの罠に陥ってしまった。

 

正義。力。
正しいものに従うのは、正しいことであり、最も強いものに従うのは、必然のことである。
力のない正義は無力であり、正義のない力は圧制的である。
力のない正義は反対される。なぜなら、悪いやつがいつもいるからである。正義のない力は 非難される。したがって、正義と力とをいっしょにおかなければならない。そのためには、正しいものが 強いか、強いものが正しくなければならない。
正義は論議の種になる。力は非常にはっきりしていて、論議無用である。そのために、人は正義に 力を与えることができなかった。なぜなら、力が正義に反対して、それは正しくなく、正しいのは自分だ と言ったからである。
このようにして人は、正しいものを強くできなかったので、強いものを正しいとしたのである。

 パスカル、『パンセ』

 

 サンデルの議論は、多少ながらもこのような要請に答えるものである。彼の議論は、古い価値基準 対 価値基準が無い という二項対立を破壊し、新しい価値基準を提供した(それが洗練されているかどうかはまた別の話である)。

これを目にしたニヒリストたちは、サンデルの議論をも破壊しようとした。彼らは一度古い倫理観を破壊している。新しい倫理観だろうが、古い倫理観だろうが、倫理観であることは同じなので、彼らは昔の倫理観を破壊したのと同じ手法とロジックで、サンデルの議論を破壊しようとした。つまり、倫理を論じるのは無意味だと言い放ったのである。ただ今回は相手が外国人であったので、枕詞に「欧米の」とか「キリスト教」とかそういう言葉が付いた。彼らのサンデル批判が多くが、サンデルの主張の中身ではなく、サンデルの議論の手法、即ち「議論してお互い倫理について語り合う」というプロセスそのものに集中したのは何ら不思議なことではない。彼らニヒリストにとって、倫理について議論することは無駄以外の何ものでもなかった。

 

しかし、政治哲学自身、すでにニヒリズムに打ち勝った学問である。J・ロールズが華々しく政治哲学を復活させて以降、善と正義の問題が、どのような国家を目指していくかという大きなプロジェクトと不可分になった。ここに欧米―少なくともアメリカ―においては、社会的要請と政治哲学の結びつきがより強固なものになった。政治哲学は、ニヒリズムに対して、その政治哲学以外の理由、つまり社会に必要とされている事実によって反論できるようになったのである。

「リアリストが提案する改善案とは、正義をあきらめてより控えめな結果を目指そうというものであった。代わりに私が提案したい改善策とは、我々はいずれにせよ正義を目指さないわけにはいかないのだから、正義についてより良く理解しようというものである」

マイケル・ウォルツァー 『正しい戦争と不正な戦争』

 

ではサンデル以前に、日本には古い価値観とニヒリストたちしかいなかったのかというと、それは違う。日本にも共産主義フェミニズムなど部分的なパラダイムを提供する学問が流行り廃れたが、サンデルに匹敵する広範な価値基準を示したのは主として2つある。法哲学と経済理論である。大学で法学を学んだ人の多くは、法の背後にある倫理的要請に気付いたであろう。また法学の中には法哲学があり、これは政治哲学に被るものである。サンデルの主張に対するもっとも強力な反証は、法哲学から出た。もう一つは経済学で、経済効用をベースにしながらも、大きな政府対小さな政府という対立の中でその倫理的要請を主張することがある。経済理論の学派からサンデルの主張に対する批判も、十分吟味する価値のあるものである。

日本人にとって残念だったことは、法哲学者と一部の経済学者という限られた人間を除いては、サンデルの議論は黒船来襲に近かったことだ。つまり大部分の日本人にとって、サンデルの主張は圧倒的で、魅力的で、―そしてまことに残念ながら―難解であった。なぜならサンデルを理解するためには、サンデルの背後にある政治哲学の知識が必要だが、それを教養として理解していた人々は非常に少なかったからである。従って、大部分の人々は、サンデルの主張の中身というより、むしろサンデルの議論という手法に興奮した。先ほどサンデルは新しい倫理観を提供したと書いたが、より正確に言えば、サンデルは日本人に新しい倫理観を構築させる機会を提供したに過ぎない。サンデルは日本を覆っていた「知」への渇望、即ちニヒリズムの闇を払しょくすることには成功した。だが彼の主張を吟味させることには失敗したのである。

 

一通り倫理についての議論が終わると―それは一度として合意に達したことがなかったが―、人々は各々の倫理観を構築し、知への渇望は去った。多くの人は政治哲学を理解しなかったので、新たにに出現した倫理観は、非常に多元的で、そして理論として脆弱な、アドホック*2なものである。確かに人々はサンデルに熱狂した。しかし、それは彼の主張が優れていたからではなく、彼が倫理的ニヒリズムを葬り、各人が自分なりの新しい倫理観を生み出すのを手伝ったから、ということにすぎない。

 

*この記事では、善・悪・正義・不正義という言葉を、政治哲学上の概念ではなく、日常会話で使う非常にファジーな概念として使っています。

 

*1:最たる例が女性専用車であろう。女性専用車は法律やルールの拘束力ではないが、「女性専用車」に男性は入ってはいけないという社会の合意がマナーとして、法律以上の拘束力を持って人々に影響を及ぼしている。

*2:限定目的の,その場限りのという意