まおゆうは「物語のイデオロギー化」なのか?:まおゆう評~改訂版~

2016/10/08 改定しました。読み直してみましたが、改定前のクオリティが低かったので。

 

ずいぶん古い話題ですが、自分の中では消化しきれてなかったので少し。

 

まおゆうはなぜ批判されるべきなのか1:意見のまとめ - 見たり聞いたりしたこと

まおゆうはなぜ批判されるべきなのか2:イデオロギーとしての「まおゆう」 - 見たり聞いたりしたこと

 上記ブログの少なくとも10回は読んでみたのだが、未だに部分的に何を主張したいのかわからないのだが(特に二者択一のくだりって関係あったか?)、要点をまとめると、

  • まおゆうは物語であるが、現実の歴史を題材にしている。
  • 物語は「決まった流れ」に沿って動いているかで面白さが決まる(!?)
  • 人は現実を物語と同じように受け入れたくなった。その場合現実を物語の「決まった流れ」のように解釈するのが「イデオロギー」である。
  • まおゆうでは、「あの丘の向こう側」は絶対的な正義として描かれており、そこ至るプロセスや意志が無条件で肯定されているという点で、イデオロギー的であり、危険である。

<外在的批判と内在的批判>

批評家に多いのだが、彼のように芸術や物語を外部のフレームワーク(多くの場合で政治イシュー)によって批評する外在的批判が隆盛を極めているように思われる。まぁ昔から、文学者の多くは政治的主張がはっきりとして人も多かったし、文学者かつ思想家というのはありふれているので、今更目くじらを立てるわけでもないが、カントが政治哲学と芸術哲学を分離しようとした試みをこうもないがしろにされると、寂しいものがある。

togetter.com

↑最近だとこんなんばっか。

PC(ポリティカル・コレクトネス)の議論でも述べたが、政治イシューにからめての批評はある意味お手頃というか、ある種のテンプレートになりつつある。もはや批評家たちは内在的批判を行わないのかと思うくらいだ。

私個人の批評の仕方としては、まず作品が「面白かったか」「つまらなかったか」を分けてから、なぜ面白かったのか、つまらなかったのを考える。その段階で外在的なものに頼ることもあるが、あくまで私の第一感(ファースト・インプレッション)を落とし込むための材料として使うだけである。

対して、外在的批判主義者は、まず作品が「フレームワークに当てはめて問題ないか」を考える。その後「フレームワークにハマっていたから面白い」「フレームワークにハマっていなかったらつまらない」とする。要するに彼らにとって芸術作品は、感動するものではなく、事例研究のようなものなのだ。最近では「面白い」「つまらない」ということさえ言わない批評も多い。

 

<まおゆうはプロパガンダ芸術なのか>

紹介したまおゆうの批評もまさに外在的批判に王道、といった感じだ。一言で批評を表すなら「まおゆうは危険だ」である。「危険」? 面白いでもつまらないでもなく「危険」?

まず、彼の批評を順に見ていこう。

 

しかし、「おもしろいか、おもしろくないか」だけで本当に作品の批評とは済んでしまうものなのか?こういうヒートアップしている時に、例えを出すのはあんまり良くないこととされていますが、敢えて例えを出すならば、世の中には「プロパガンダ芸術」というものがあるのはご存じでしょうか?例えば有名なものとしては『國民の創生』とか『意志の勝利』とかがありますし、例えばディズニーなんかも戦時中にこんなアニメがあります。

http://www.dailymotion.com/video/x555gw_victory-through-airpower-trailer-19_shortfilms

これらは作品として素晴らしいことは否めません。ですが、じゃあ「面白いから全て良い」のか?そんなことはありません。例えば『國民の創世』は黒人差別を肯定し、『意志の勝利』はナチスを美化し、そしてディズニーのアニメは日本への無差別爆撃を肯定しました。それら全部、「面白いから可」なのでしょうか?

彼はここでエンターテインメントとプロパガンダにおける融合を危険視している。たしかに、面白ければ無条件に批評を免れると言うものではないだろう。

一方で、

あるいは、『シンデレラ』とか『白雪姫』というような物語が、良妻賢母として生きるよう女性を教育するために広められた、という議論もあります。つまり、物語の中で一定のイメージを描き、しかもそれに一定の価値を与える、そういう物語から、人々がその一定のイメージを一定の価値を持って見るようになるということは、特にそれに対する批判的な見方が一切ないような場合に、ありうることなわけです。そのような場合、物語が人々にある一定の「見方」を与えているのではないか?という批評は、当然あってしかるべきなのではないでしょうか。

(太字は原文ママ

「それに対する批判的な見方が一切ないような場合に」という条件が示されている。でも、現代で「批判的な見方が一切ない」場合なんて存在するか?

価値観が多様化し、様々な主義思想・情報へのアクセスが容易になった現代においては、芸術であれ、政治イシューであれ「批判的な見方が一切ない」状態はありえないと思わる。たしかに戦前日本やソ連などの、情報へのアクセスが遮断され、国民の思想をコントロール下におこうとする社会での、芸術的作品におけるプロパガンダ性に対する批判は、意義を有するだろう。しかしその場合も、その批判は、「社会を善くする」という芸術を超えた効用を見込まれて有益とされるのであり、芸術そのものの効用に関する批判ではない。ここが、まさに外在的批判の罠である、外在的批判者によく見受けられるのが、「芸術作品について語っているつもりなのに、いつもまにか政治問題を語っている」という状況なのである。

いずれにせよ、多様性を内包した現代社会で、ある特定の思考様式をベースにした作品が危険だとは思えない。それはレイプもののAVを見るとレイピストになり、暴力ゲームをすると暴力性が増す、という言説並に暴論である。*1

現代において排斥されるような思考をベースにした芸術を見たからとって、鑑賞者がその姿に共感するかどうかは別の話である。言うまでも無く、プロパガンダ映画を見たからと言って自動的にその思想に染まるわけではない。彼の仮定はまるでスターリンの映画を見た人が共産主義者になるから危ない、といっているようなものだ。

 

だが、彼はここで、

また更に言えば、そもそもなぜ敷居氏はこの物語を「面白い」と感じたのか?ある物語がフィクションであり、思想と全く関係ないと仮に言えるとしても、それを受容する読者の側は、当然社会的に生きて、社会の中で、「何を面白いものと感じるか」という感性も形成されるわけです。とするならば、その面白いと感じられた物語から、人々の感性、そしてそれを形作ってきた社会も考えることが出来るわけです。エンターテイメント派は「ただのエンターテイメント」と言いますが、ただのエンターテイメントとして人々に受け入れられるからこそ、それは考慮され、批判の対象になるんですよ。

「危ない」という批評から離れ、「面白い」と感じる感性を足がかりにすることによって、社会、強いては個人を分析することをできるとしている。ここでも芸術を従、社会を主におく、という外在的批判の問題が現れるが、他の主張に比べるとまっとうな事を言っているようにも思われる。しかし彼は、この分析をイデオロギーと絡めて論じてしまい、的を外していくのであるが、その部分はあとで再び触れることにする。

 

次に、彼はようやっと主題に入る。

まおゆうは啓蒙主義であり、問題があるんじゃないか派(啓蒙批判派)

…(中略)…

ここで重要なのが、啓蒙という立場を批判する側も、別に啓蒙される「中身」を非難しているわけではないということです。だって、それならその中身を、例えば「近代」とか「新自由主義」とか言って名指しして批判すればいいわけで、別に「啓蒙主義」なんて言葉を使わなくてもいいわけですから。

考えてみれば「啓蒙主義」というのはなかなか奇妙な言葉です。「啓蒙」っていうのは例えば「○○を啓蒙する」なんていう風に、名詞ではなく動詞として使われる言葉なんですから、でも、「啓蒙批判」においてはそこがミソになるんですね。つまり、啓蒙される「中身」が批判されるべきだから、啓蒙主義は批判されるんじゃない。そうではなく、何かを「啓蒙」するという、その行為の「形式」こそが批判されるのです。「このまおゆうを批判している人は、この物語が近代を人々に押しつけているとみなしているから批判してるけど、それは違う。」なんて馬鹿なことをエクストラレポート・ルームは言ってましたが、それがいかに馬鹿なことか分かったと思います。

まさて、ではこの物語は何が啓蒙主義的か?それは、「『丘の向こう』という正しいものがあり、人々はそれに進まなければならない」という、「正しさ」を想定する態度なのです。そこで問題となるのは「正しさ」の内実ではありません。そうではなく、それがどんなに正しいものであれ、それを「正しさ」として提示し、そしてその方向に進む正しい道がある、人々はその道を進まなければならないとする態度が、問題となるのです。」

  • 「丘の向こう」の中身自体は特に問題は無いし、関係は無い。
  • 「丘の向こう」に進まなければならないという構造(啓蒙主義)が問題。

うーん?わかったようなわからないような・・・。そもそも啓蒙主義自体が一つの思想体系なので、「正しさを押し付けるという正しさ」を示しているのであるから、「正しさ」の一体系、「丘の向こう」の内実の一つのような気がするんだが(メタの入れ子構造が認識されていない)・・・。

さらに、

ここで、「いや、でもこの物語は『丘の向こう』に行く正しい方法がどんなものかについては、一切提示していないよ?」という反論があるかもしれません。しかしそれでも「丘の向こう」の存在自体は圧倒的に「正しい」ものとして、作者に肯定されるわけです。そうなれば、そこに向かう道もあるでしょう。

いやそれは違うでしょう。「丘の向こう」は一種のデウス・エクス・マキーナで、世界の解決策で、この物語のたどり着く先ですけれども、絶対的に正しいもの、というわけではない。少なくとも光の精霊との会話で、勇者と魔王は世界を停滞から開放する子には犠牲が伴うと理解していたわですし。「丘の向こう」は絶対的に正しいものではなく、勇者と魔王の選択による結果でしょう。

 

さらにこれより前の部分で、彼は、まおゆうの「新自由主義的」側面の批判を紹介しているのですが、

例え犠牲が少数であり、それにより助けられる人が多くなったとして、でもそこで「少数の犠牲を出すこと」は起きる。しかしこの物語ではそれは「仕方がないこと」として肯定される。それはどーなの?と問うているのです。時代が進歩していくために、「優れたもの」を優遇し、そしてそれにより「劣ったもの」を切り捨てていく、そのような態度について、kagami氏は「新自由主義的」だと批判しているわけです。

あれ? これってまさに「丘の向こう」に進むための行為が無条件で肯定されている、っていう彼のさっきの主張と同一じゃありませんか。しかし彼はその行為について「啓蒙主義的」な「形式」が問題であり、「中身」が問題ではない言っているわけですが、この彼が紹介した部分では、「新自由主義的」な「中身」が問題だと言っているわけです。あれれ?混乱してきました。

彼の主張がわかりにくいのは、思想をむりやり「中身」と「形式」に分離し、語義の使用に混乱が見られるからです。彼の「形式」こそが問題だという主張は、続く文で完全な矛盾をきたします。

だって、そうやって「丘の向こう」を宣伝し、に行こうとすることによって、ホロコーストも起きてきたし、日本のアジア侵略と、そしてその帰結としての太平洋戦争も起きたんですから。それぞれにおいては当然「丘の向こう側」の内実は異なってきました。しかし重要なのは、それが正しいものとされ、そしてその「正しい」ものの内実については一切批判が許されてこなかったことが、歴史の悲劇を引き起こしてきたと言うことです。

かなり乱暴な議論です。なぜなら、例に挙げられている「太平洋戦争」も「ホロコースト」も、「丘の向こう側」に至る「形式」というより、「丘の向こう側」の「中身」自体が問題であったからです。太平洋戦争では、他のアジアの国の資源を日本人のために強奪することが「丘の向こう側」でした。ホロコーストでは、ユダヤ人を抹消することが「丘の向こう側」でした。では、「丘の向こう側」の中身が妥当な場合でも、それを正しいものとする動きは危険なのでしょうか?公民権運動や女性参政権などもまた「丘の向こう側」の一つであり、それは今日では絶対的な正しさとして認識されています。それらの正当性を疑う言説は相手にされないでしょう。では、公民権運動や女性参政権は危険だったのでしょうか?

彼が長々と述べてきたまおゆう批判は、ここにきて、「特定の思想を下敷きにしている」、めざす「丘の向こう側」の中身という一点にようやっと収束するのです。

 

だが、あらゆる名作との誉れを受ける作品は、ある種の社会的状況をテーマ、あるいは下敷きにし、明示的にせよ暗示的にせよ、「あるべき姿」としてのエンディングを描いている。まおゆうとよく似た形式の作品としては、チェーホフの戯曲があるが、それにはロシア革命前の閉塞的な社会情勢をベースに、貴族たちが没落していくさまが描かれている。だからといってそれが革命主義的で「危険」であろうか?彼はそういった「あるべき姿」を示す芸術を遠ざけようとするが、と想定するようなものだ。皮肉にも、彼の「まおゆうは危ない」という主張は、彼のブログに書かれているところの、「まおゆう」に対する意見が相当に異なるという事実にによって反証されている。

といろいろケチはつけたものの、かの批評には数々賛同できるところがあり、分析は示唆に富みます。確かに、『まおゆう』にはきわめて重大な問題が存在しています。次回はそれについて詳しく述べていきます。

*1:一時期は隆盛を誇ったこれらの議論だが、現在では、暴力ゲームと暴力性、ポルノとレイプの関係性は、人格形成の途中であると思われている子供においても、否定されている。詳しくはスティーブン・ピンカ著、『人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (下)』を参照のこと。 

作品の「鑑賞 / 作品の「消費」 アニメを消費しよう。

最近「消費」という言葉がマイブームである。

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まぁいろいろな是非はおいておいて、本来一般的な観点でいう消費財でないものに対して「消費」という言葉を使うのは少し違和感がある。例えば、「アニメを消費する」と言った際、どのような印象を受けるだろうか。「アニメを見る」と普通に表現した場合とどう違うのか。

本来「消費」とはニュートラルな表現であるはず。それは経済活動における行動様式を指す。この世のほとんどは生産と消費によってまわっていることを考えれば、日常のあらゆる場面で我々は「消費」活動をしている。しかし、特異なのは、「消費」とは本来金銭を介して行われるものであるが、最近は無料の物、いわば経済活動の枠組みから外れたものに対しても使うらしいのである。例えば「アニメを消費する」といったふうに。アニメとは本来無料のコンテンツであるから、金銭を介する「消費」という言葉とはそぐわないのではないか。

本来消費財でないものに対して「消費」という言葉を使うのは、その物がまるで消費財であるかのように錯覚させてしまう。消費財というのは日々の生活で使用される、いわば代替可能のモノである。このモノという概念を芸術作品に当てはめると深刻な齟齬を引き起こす。「消費」という言葉を使われた物は、代替可能な非常に低俗なモノとして再定義されてしまう。このことから、それ自体に価値がある物や芸術性が高い物に対して「消費」という言葉を使うと、何か低俗なことをしているぞ、といった印象を受ける。

「消費」の対極にあるのが「鑑賞」である。就活やバイトの履歴書で、趣味の欄に音楽鑑賞や絵画鑑賞という言葉を書いた人も多いだろう。「消費」と違って、「鑑賞」は芸術性が高いものに使われる。「アニソン鑑賞」とはあまり言わないが、「クラシック鑑賞」という言葉よく聞くであろう。ある物に「鑑賞」という動詞をつけると、その物がまるで芸術性の高い、高尚な物であるという印象を受ける。

以上を踏まえたうえで、「○○を消費する/鑑賞する」といった場合、○○が芸術か否かという問題に直面するだろう。というよりその言葉の使い分けによって、○○に対する態度を規定しているように思える。例えば「俺はアニメを鑑賞している」といった際には、「俺」はアニメを芸術だと思っている、という意味であるし、「あいつは萌豚でアニメを消費しているんだ」と言うときには「あいつ」はアニメを芸術だと思っていないという印象を受ける。

個人的な意見を言わせてもらえば、作品の高尚さや低俗さなんて概念はナンセンスである。我々は高尚なもの、奥が深いものを芸術だなんだともてはやすが、なぜ高尚さによって芸術性を定義できるのか、理由がよくわからない。人間は昔からそのような思い込みにとらわれていたらしく、古代ギリシャの頃から喜劇よりも悲劇の方が高尚とされていたらしい。しかし坂口安吾が言う通り、悲劇にも喜劇にも芸術性があり、人々を楽しませるということは、奥深さとか高尚さとかと同じくらい価値があるものである。そもそも作品に高尚・低俗のレッテルを張ることすら無理なのかもしれない。

したがって私はその用語に高尚さと低俗さを内包する「消費」や「鑑賞」のどちらも使いたくない。アニメは「見る」、これが一番ニュートラルな表現であり、十分だ。

まぁこれは私の意見なので、奥深さや高尚さが芸術性を増すんだと思いたい御人はそう思えばいいのだろう。しかし心にとどめておくべきなのは、高尚な作品を理解できる俺は高尚、もしくは奥深さを理解できないあいつは低俗で劣っている、などという考えを持ってはいけないということである。いや仮にある作品が高尚だったとしても、高尚なのは作品であって鑑賞者じゃねーから。「アニメを消費する」なんてのも相手をDISる意図で言っていることが多いよなぁ・・・。

美しいもの愛する私は美しいと、人間は思いがちである。しかし我々は美しくはなく醜いのである。

「彼らは確かに死んだ。だが俺は生きている、あなたも。」

「何が言いたい…!?」

「人は、他人のために命を捨てられることがある。だからといって、俺やあんたが偉いわけじゃない。偉いのは…、美しいのは…、死んだ彼らだけだ!!俺達は卑小で、愚かで、猥雑で、この地面に這いつくばって必死に生きている、それだけだ…!!」

UNーGO 第5話

 

なぜお花畑の「侵略されたら抵抗しなければいい」は許されないのか?

本気で言っているのかわからないが、時折「無抵抗主義」なることを主張する人達がいる。日本が攻められても、抵抗しなければ殺されることは無いんだ、だから軍備をやめようとか、酷い時には「殺すくらいなら殺されよう」とかいうのもある。*1 個人的には、そういって言う人達のところに行ってお金をせびったら無抵抗で払ってくれるのかな、と馬鹿なことを考えたりするのだが、それはともかく、この考え方がどう間違っているか見てみよう。

 

まず「国による防衛」は、基本的には「個人の正当防衛」の類推から来ている。*2 その上で、我々は防衛の権利を正当なものとして受けいれているという事実に着目する。正当防衛によって我々が守るものを、「無抵抗主義」でも守れるのであれば、他人を傷つけないだけ「無抵抗主義」の方が優れていることになる。では、まず始めに、正当防衛によって何が守られるのかを分析する必要があるだろう。正当防衛は基本的に2つの根拠から成り立っている。

自己の保身

法益の回復

①の自己の保身とは、自分の生存権が侵されたとき、それを守るためにやむを得ず行う行為として正当防衛が認られる、ということである。

②の法益の回復とは、加害行為を不正とみなしたときに、そのままでは加害者は不正行為によって利益を得、被害者は不正行為によって損失を被るため、その傾いた天秤を戻すために行われる救済的措置の意味合いがある。

もし「無抵抗主義」が、正当防衛よりも倫理的により良い手段を提供するのであれば、その手段は①と②を満たしていなければならない(でないとそれは正当防衛の劣化版になってしまう)。しかし、お花畑さんに多い「非暴力無抵抗主義(=侵略されて国が滅んでも人々が無抵抗なら人々が殺されることはない)」は、②の法益の回復という要請をないがしろにしている。我々はただ殺されないためだけに自衛をするのではなく、加害行為によって被る損害を防ぐ、あるいは回復するために自衛をするのである。確かに、加害行為に対して抵抗しないことは、①の要件を満たし、自分の生存権を守ることが出来るかもしれない。しかし、それは加害という不正に屈したという点で不正義である。加害行為に抵抗しないことは、その不正行為を認めるという点で、不正行為にある種の正当性を与え、加害者が近い将来にまた不正を行う可能性を高めるという点で、不正義である。ここから、我々には、不正に対して抵抗しなければならない、という倫理的要請が存在するのがわかるだろう。「無抵抗主義」は、この要請を満たしていないので、倫理的に間違っていると結論付けられるであろう。

「無抵抗主義」がなぜ間違っているかの論証は簡単なのだが、カンジーの非暴力不服従は難しい。カンジーは抵抗して不正に抗うことを推奨しているという点で「無抵抗主義」とは一線を画すであろう。非暴力不服従も今後分析していきたいところである。

 

*1:デマでしたね

*2:個人の正当防衛を認めながら国による防衛を認めない立場はあり得ない。もし個人の正当防衛を認めるならば、敵国の軍は最終的には日本国民に害を与えようとしているので、個人は敵軍に対して軍という形ではなく、個別に防衛する権利が発生する。そのような抵抗はゲリラ・パルチザンの形態をとるであろう。しかし、銃規制がされているわが国で、個々人が組織された現代の正規軍と戦うのは自殺行為である。従って、国民の被害を軽減するために、外国の軍の加害行為から守れるような、組織化された軍事組織を持つ必要がある。そしてそれは自動的に、国による自衛権を肯定するようになる。

「正しさ」はどうやって納得させる?~同性婚の事例を手掛かりに~

政治的記事。長め。同性婚に賛成する人に特に読んでほしい。

同性婚は概ね「正しい」事例である。私は様々な反対意見を聞いてきたが、再反論に耐えるものはなかった。*1 同性婚反対派の主張は社会の安寧だの少子化だの述べているが、結局のところ彼らが反対する理由は、同性婚は従来の婚姻制度と比べて不自然すぎる、という一点に尽きるだろう。この不自然さという感覚は、それ自体なんら倫理的正当性は無いものだし、そういった身勝手な主張を今ここで批判するのも野暮だろう。

なぜ彼らが「不自然」だと思っているのかが重要である。確かに彼ら(同性婚反対者)は間違っている。間違っているのだが、彼らに間違ってますよ、と言い続けたところで彼らは間違い続けるし、彼らは同性婚に反対し続けるだろう。ここに倫理学の限界がある。たしかに倫理学は物事が正しいか間違っているかの判断を下すことができ、望ましい社会のありかたを提示することができる。だがこれは、望ましい社会が訪れることを意味しない。倫理学はある選択が正しいか間違っているかについて答えることができる。だからといって選択が自動的に行われるわけではない。選択は人間の行為であり、倫理以外にも様々な要素が複合的に絡まって決定されるものだ。例に殺人をとってみよう。殺人は人類普遍の悪と言っていいくらい、広範な社会に忌むべきものとして受け入れられている。殺人は間違っている。だが、世界から殺人がなくなることはないだろう。世界から殺人をなくすためには、殺人に対して「間違っている」というだけではなく、そのほかの措置が必要になってくる。

 

私が同性婚賛成者に危惧しているのはそこである。同性婚を制度化するには賛成者の内側だけで盛り上がるのではなく、反対者の意見を変える必要がある。これは「説得」と呼ばれるプロセスだが、私が見た限りその「説得」は、反対者に向けて真摯に訴えるというよりは、むしろ賛成者の絆を強固なものにしているだけにすぎない。先日行われた、ニュージーランドの議員の素晴らしいスピーチを見てみよう。

「同性婚に反対する人へ。約束しましょう」ニュージーランドの議員の演説に耳を傾けてみよう

今、私たちがやろうとしていることは「愛し合う二人の結婚を認めよう」。ただそれだけです。

外国に核戦争をしかけるわけでも、農作物を一掃するウイルスをバラ撒こうとしているわけでもない。

お金のためでもない。単に、「愛し合う二人が結婚できるようにする」この法案の、どこが間違っているのか。だから、本当に理解できないんです。なんでこの法案に反対するのかが。自分と違う人を好きになれないのはわかります。それはかまいません。みんなそんなようなものです。

この法案に反対する人に私は約束しましょう。水も漏らさぬ約束です。

明日も太陽は昇るでしょうし、あなたのティーンエイジャーの娘はすべてを知ったような顔で反抗してくるでしょう。明日、住宅ローンが増えることはありませんし、皮膚病になったり、湿疹ができたりもしません。布団の中からカエルが現れたりもしません。明日も世界はいつものように回り続けます。だから、大騒ぎするのはやめましょう。この法案は関係がある人には素晴らしいものですが、関係ない人にはただ、今までどおりの人生が続くだけです。

 素晴らしいスピーチだ。正論だし、反対者のことも考えている。「同性婚を認めても異性愛者には関係ありませんよ」と、ここまで言い切っているのも潔い。そう、実は同性婚というイシューは、日本人からみたアメリカの銃規制以上に、どちらが正しいかわかりやすく、さらに同性婚を認めたとしても社会は損をすることはないのである(同性婚を認めた次の日の区役所は少し忙しくなるかもしれないが)。

君たちはなにも失うものがないのに、と多くの同性婚賛成者は反対者に言うだろう。だが、残念ながら、こうした説得方法は完全に間違っている。彼らは、反対者の意見には対処してきたが、「なぜこの人たちは同性婚に反対するのだろう」という至極まっとうな問いを無視してきた。それには間違ったことを言っている奴は学が足りないから理解できない、という反対派の傲りもあったであろう。彼らは人を見ずに、思想だけを「説得」してきた。

確かに、同性婚を認めた日にも太陽は昇るし、娘は反抗する。しかし、同性婚が認められず異性婚だけが認められてきた、その日々は二度と帰ってこない。男女が恋愛し、子供を産み、家庭をはぐくんてきたことが推奨され、尊敬されてきた社会。そのような社会は昨日で終わったのだ。昔ながらの価値を重んじてきた人にとってはそれは、アイデンティティーの喪失に近い状態であろう(例えそれが間違っていたとしても、である)。

これが大した問題なのか、と冷笑する人もいるだろう。彼らは正しい。正しいが、それだけだ。問題解決には何ら寄与していない。NHKEテレの「リーダーシップ白熱教室」でハーバードケネディスクールの講義が放送されていたのだが、その第5回のハイフェッツ教授とネパールから来たサプナという生徒のやりとりがそういう人たちを象徴しているように見える。*2 教授は、「物事を変革するには、変革に反対する人たちが変革によって失うものを理解し、説得すること大事である」と述べた後に、生徒からある指摘を受ける。

 生徒「女性の権利について活動するとものすごい抵抗があるんです。教授が言っていたように、『失うことへの恐れ』なんだと思います。例えば私は妊娠中絶に関する法律を変えようとしているんですが、男性には直接何の影響も無いのにもかかわらず抵抗されます。女性の性を支配する力を失ってしまうと感じているからだと思います。教授は、人は何かを失うと思うと抵抗するとおっしゃいましたね。でもなぜアメリカで今も、中絶に対する反対があるんでしょう。別に何を失うわけでもないと思うんですが。

 

教授「君がすべきなのは、何を失うのか、その損失を特定することだ。おそらく彼らには本当に失うものがあるんだと思う。失われるものが何かを明確に把握していなければ、人々に失うことを受け入れさせることはできない。例えば私は愛のあふれる家庭で育った、と仮定しよう。両親は善良な人達で、責任を持って私を育ててくれて、いい教育を与えてくれた。私が成長する過程で、両親は私に物事のあり方や考え方を教え、同時に価値観も植え付けた。私が学んだそういう価値観は、愛情と入り混じっている。価値観は、愛情を持って育てる親から子に受け継がれるからだ。子供は、愛情も価値観も一緒にまぜこぜになったまま受け取る。そして大人になるころには、自分を愛し、慈しんでくれた人たちのコミュニティーの価値観がすっかり自分の中に根付き、それが自分の脳のソフトウェアとなって働いている。こういうときはこう、こういうときはこう、という具合に、無数の規定が存在する。何をするにもその人なりのルールがある。それは、生まれてから長い時間をかけて取得してきたもの。地域社会、目上の人達、友達や両親から学んできた規定だ。例えば今、私がネパールの男性で、サプナ(生徒)がさっきの問題を突き付けてきたとする。私は大人の男で、結婚しており、子供もおり、両親がそうだったように、自分もいい親であろうと努力している。なのに、今君は『妊娠を継続するかどうかの権利は女性にある』と言った。『女性が妊娠を継続しようがしまいが、男には直接関係がないのに』とね。しかし、サプナの言ったことは、別の言葉でいえば、私の父と母が教えてくれた価値観、あるいは宗教的指導者から教わった倫理観、地域社会の目上の人達から教わったことは間違っている、ということだ。君は自分のおじいちゃんが教えてくれたことを間違いだと思えるかい?おじいちゃんが孫に女性にいくら権利があるからといって、おなかの赤ちゃんを勝手に殺す権利があるということにはならないと教えていたとする。だとすれば君は、その人に『大好きなおじいちゃんの教えに背け』と言っている事になるんだ。それは大きな損失だよ。変革が大変なのは、自分にとって大事な人達との軋轢を産むからだ。私たちの中には、それぞれ自分の価値観があり、これはこうだと決めてかかっていることがある。それはいわば、使っていることに気付かずに使っているソフトウェアのようなものだ。私たちはみな固定観念を持っている。成長の過程で、世の中はこういうものだと周囲から教えられながら成長する。だから価値観が身にしみついているのが当然で、自分を愛し慈しみ、教えてくれた人達に対する忠誠心を持って当然だ。まず君に学んで欲しい。その人たちの生き方を変えるように促す事は、今度は彼らが忠誠を誓う人達との軋轢を越えていくようにしなければならない。だからサプナ、君の仕事は、そういう損失の痛みを引き受けてくれるよう人々を導くことだ。君は人々の足を踏みつけ、大事なものを捨てろ、と言わなければならないわけだ。しかし、人々が何を失うのか分かっていなければ、その仕事は始められない。サプナが祖国で、女性の権利を推進しようとすることは、大勢の男性、そして女性に『貴方たちの文化の重要な一部を捨てなさい』と言っているのと同じことになる。君は誰かの所にいき、『これから足の指を踏み、痛い思いをさせるよ』と言う。でもいっぺんに五本の指を踏んだりはしない。君が我慢できる範囲でだ。まずは指一本から。踏まなきゃならないんだ。そうしないといずれ大変なことになる。だがサプナ、君は誰かの足を踏んでいることにも気付いてもいない。君はいわば、後ろを見ずに下がった拍子に、誰かの足を踏んでしまい、その誰かから蹴り返されてびっくり仰天している状態だ。今までの歴史に敬意を払いつつ新しい一歩を踏み出していかなければならない。その歴史が、たとえ暴力に彩られた犯罪的なものもあっても、そこにはある種の忠誠心があり、伝統がある。その社会なりの理由があり、それを分析し理解しなればならない。変革の痛みに対し、深い敬意を払う必要がある。」

 

NHK リーダーシップ白熱教室 『第5回 難題と向き合おうじゃないか』

 続けて別の生徒が質問する。

 生徒「私が気になっているのは、人も私に何か捨てろと求めている時に、どうやったら人に『捨ててもいい』と思わせられるのか、ということです。向こうは私に歩み寄るよう求める。私は彼らにこっちへ来るように求める。私が思いついた例は、アメリカにおける銃規制法です。私はどちら側の意見なのか分かっているし、今の銃規制法を変えたいと心から願っています。でも、逆の意見を持っている人達にも、心の中に深く根付いた価値観があるわけですよね?今は、どちらの側もどんどん態度を硬化させていて、どちらも相手の側が自分たちの価値観を受け入れるべきだと考えているように感じます。」

 

教授「君から人々の所へ行き、話に耳を傾けることだ。そして彼らがなぜそう考えるのか、彼らの忠誠心や価値観の根っこはどこにあるのかを学ぶことだ。学ぶことによって初めてその価値観の中に君が敬意を払うものを見つけ出せるし、敬意を払えない価値観は捨てるように説得できる。あるいは価値観の表現の仕方を変えるよう説得できる。誰かの銃を取り上げようとする前に、まず理解しなければならないことは、もしかしたらその人は、子供の頃父親から銃の撃ち方を教わったのかもしれない、という事だ。私はアイスクリーム・コーンを見ると、父と過ごした楽しかった思い出がよみがえるのだが、同じようにある人達にとっては、銃は楽しかった思い出の象徴なのかもしれない。父親と一緒に星空の下で眠り獲物を追いかけた。彼らにすれば、『その思い出を取り上げるのか?』という事になる。彼らは銃を持つ権利がどうのこうの言っているが、問題の本質はそこにあるんじゃないんだ。彼らは自分に銃の扱い方を教えてくれた父親に忠誠心を抱いている。父は優しく、愛情をこめて銃の安全な扱い方を教えてくれた。人を殺せる銃を扱うという事は責任を伴う。だからそれは責任感のある人間になれと教えることでもあっただろう。相手の価値観やそれまで過ごしてきた人生をよく知ったうえで初めて、どうやって説得したらいいかが見えてくる。相手の世界観の中で、現実に銃が引き起こしている悲劇を直視してもらうんだ。最終的には相手の大事な思い出を捨てさせる事なく君の目的を達成する方法を考えることだ。父親と一緒に狩りに行くのが好きだった人は、狩りを好きなままでいいし、父親の思い出を捨てなくてもいい。ただ、誰でも簡単に銃を買える事は出来なくすればいい。あるいは、銃や弾倉のサイズや種類を考え直し、一度に多数の銃弾を発射できるようなものを規制すればいい。つまり未来へ残していっていい価値観と、捨てて欲しい価値観とを明確に区別して、相手を説得すればいいんだ。でも今は君は自分が何を言ったのかも分かっていない。でもそれでいいんだ。これから状況を分析して診断していけばいいわけだから。」

 

生徒「いえ、銃の規制は例として挙げただけです。私の専門は気候変動なので。」(会場笑い)

 

NHK リーダーシップ白熱教室 『第5回 難題と向き合おうじゃないか』

 「お前たちは何も失うものが無いんだから」というのは傲慢だ。失うものを定義するのは私たちではなく、「お前たち」なのだから。同性婚を制度化しようという運動の中で、最も無視されているのは「同性婚が認められると反対する人達は何を失うのか」という分析だ。同性婚反対派の主張は倫理的には全く持って正当性が無い。だがもしかしたらある種の忠誠心があるかもしれない。それは彼らの両親や目上の人達から愛と共に植え付けられたものだ。彼らは幼少期、両親が深い愛情を持って自分を育ててきてくれたという感謝を、同性婚反対という間違った方法で表現しているだけかもしれない。同性婚に反対する人の多くが、シングルマザーや離婚持ちの人たちに冷たい態度をとる層とかぶっている事実は、彼らが同性愛者に対して嫌悪感を抱いているというよりも、同性愛者がつくる社会によって、既存の家庭のあり方が壊されることに危機感抱いていることを示している。

確かに日本には同性愛に対する生物的誤解がたくさんある。同性愛について深く知る機会を作り出すことは重要であろう。しかし、同性愛について皆がよく理解すれば、一気に同性婚が認められる、という見方は希望的観測以外の何ものでもない。問題は無理解にあるのではない。問題は、多くの人が、「同性婚は既存の家族制度を崩壊させる」という恐れを抱いているところにある。そしてそれは、彼らの両親から教わった、温かく愛にあふれる理想的な家庭を築こうという意志と密接に結びついている。彼らの愛にあふれる家庭を築こうとする努力や、両親への感謝は、尊敬に値するものだ。だから我々は彼らに、そういった価値観は持ち続けていいですよ、と明確に示さなければならない。明確に示した上で、その価値観を持ち続けることは、同性婚に賛成することと何ら抵触しないということを理解させなればならない。同性婚を認めても、両親への感謝や愛あふれる家庭といった価値は何ら損なわれることはなく、むしろ同性愛者はそれを目指して同性婚を制度化しようと頑張っているのだ、ということを説明する義務が我々にはある。「あなた方大切にしている価値観はまだ大切なままである。ただ、今回はその価値観を信奉する集団に、同性愛者が加わるだけですよ」と言って彼らの大切な価値観の表現方法を変え、同性婚の「不自然さ」を払しょくさせる必要があるだろう。

日本における同性婚議論の大部分が、こういった背景を無視して、その思想自体の正当性を競う議論に終始していることに、私は深い懸念を抱いている。確かに同性婚反対者は間違っている。だが、彼らが間違っているからと言って、彼らの頭が弱いとか、彼らが人間的に劣っているとかいう考えを抱くのは、彼らが間違っている以上に間違っている。そのような見方は、同性婚の制度化という社会正義を追求しようとする気高い意志よりも、むしろ考えが足りない人を見下して満足しようとする矮小な自尊心から生まれているように感じる。思想は人に従属するものであるから、我々は思想を変えるときに、人をも変えなればならない。そしてそれがどのような人であろうとも、その人なりの世界があり、理由がある。それに対して敬意を払う必要があるだろう。

*1:もしよければ、反対意見をコメントに残して行って欲しい。その中で説得力のあるものがあれば、私もその「正しさ」を保留するかもしれない。

*2:余談になるが、リーダーシップ白熱教室は是非とも全編通して見てほしい。特に社会が間違っていると思っている人は、必見である。

右翼/左翼を分かつもの~日本の外交政策の焦点とは?~

政治的記事。苦手な人はスルー推奨。

 

TwitterTogetterでの議論を見ていると、「ネトウヨ」や(少なくなったが)「ブサヨ」などのレッテル張りが行われることがある。そのあと「ネトウヨの定義は?」とかいう話になって泥沼化することが多い。ネトウヨどころか右翼と左翼の定義も厳密には不可能であるが、一般的にどのような主張をすれば右翼/左翼になるのかということは、吟味しても良さそうである。

 

右翼と左翼の語源はフランス革命までさかのぼるといわれるが、右翼とは保守派、左翼とは革新派の事を指すらしい。世界的にこのような区分によって分かれるが、何をもって保守というのは国によって異なる。アメリカの例を見てみよう。

 

         左翼              右翼

支持政党     民主党             共和党

出身       太平洋、大西洋沿岸の都市部   中南部の田舎   

南北戦争時    北軍              南軍

銃規制      賛成              反対

同性婚      賛成              反対

中絶       賛成              反対

 

アメリカの場合は右翼=保守、左翼=革新という区分けがストンと理解できる。しかし、これが中国になってくると話が難しくなってくる。

         左翼              右翼

政治志向     平等              自由

民主主義     直接民主制           間接民主制

毛沢東時代    賛成              反対

グローバル化   反対              賛成

経済       福祉国家            自由市場

参照:

オレ的中国の実態 : 訳してみた:図でわかる中国の左翼と右翼

 

といった風にいわゆる右翼=保守、左翼=革新という構図が逆転している。つまり、中国では左翼=保守、右翼=革新という風になる(これは毛沢東がもともと共産主義で左翼だったから、そのまま左翼が基準点になったらしい)。

 

では日本の政治意識はどうなるだろうか。

 

         左翼              右翼

太平洋戦争    否定的             肯定的

軍事力の行使   否定的             肯定的

東アジア政策   アジア共同体          脱亜論

9条       個別的自衛権          集団的自衛権

改憲       NO              YES

同性婚      賛成              反対

グローバル化   賛成              反対

経済       福祉国家            自由市場

 

基本的に右翼=保守、左翼=革新という構図からそう逸脱するものではない。しかし、これまで見てきた結果、それぞれの国には固有の争点があり、それが右翼/左翼の分類に多大な影響を及ぼしている。アメリカでは南北戦争、中国では毛沢東時代の評価、知り合いの韓国人に聞いたが、韓国では北朝鮮への態度が右翼/左翼の分水嶺になるという。日本はどうであろうか。

 

言うまでもなく、日本の争点は太平洋戦争に評価、これに尽きる。面白いことは、この戦争の評価のいかんが、現在の外交政策の違いを生み出しているところにある。例えば太平洋戦争を肯定する層(右翼)は、脱亜論と日米同盟を説いている。太平洋戦争を批判する層(左翼)は、植民地主義の償いとして、アジア主義と一体化している。ここから、日本の外交は、現状の認識ではなく、過去の印象で決まっているということが出来るだろう(これはゆゆしき問題である)。

その中でも極左に属する人達は、一度政権をとるとこれまでの外交政策の根本を破壊し、日本を破滅の道に進ませる恐れが高いという点で最も危険である。彼らの脳内はお花畑であり、ある種の独善的な無抵抗主義が基本路線である。彼らの描く日本の外交政策は、日米同盟の破棄から自衛隊の廃止にまで連なり、その理想主義的思考は、戦略的思考の欠如という言葉では済まされないほど取り返しのつかないものである。

私が期待するのは、これからの外交政策を決定していくうえで、現実的に日本が置かれている情勢を理解できる、「ミリオタ」or「ミリタリークラスタ」と呼ばれるライトな右翼の層がイニシアチブをとり、日本の外交形成に寄与していくことである。ミリオタは兵器好きの集まりだが、その兵器がどのような思想・背景で開発されたかとか、どのように用いられたかについても知識があるという点で、戦略的思考ができる。彼らが、ライト左翼~中道派(日本人のマジョリティ)に戦略的思考の必要性を訴えることによって、日本の外交政策はより洗練されたものになるだろう。

ただ一つ残念なことは、ミリオタ層は極右層と同盟関係、若しくは黙示的に協力関係にあることが多い。それはミリオタ層の興味が旧日本帝国軍の兵器であることが多く、それを肯定する極右層とある種の互恵関係にあることが理由である(ミリオタ層は旧日本軍の栄光について極右層に説明することができ、極右層はそれに対して称賛を与えることができる)。私が見てきた中で、どれほど中立的なミリタリークラスタも、太平洋戦争については、ある種の称賛を与えるか、黙るかしかしていない。いかに日本が右傾化しているとはいえ、過去の戦争の評価を変えるほどには至っていない。日本人のマジョリティは、太平洋戦争を批判的に見ているか、少なくとも肯定していない。残念ながらミリオタ層が太平洋戦争を肯定している以上、マジョリティ層がミリオタ層の主張する戦略的思考について耳を貸す可能性は低いだろう。ミリオタ層に必要なことは、極右層と決別し、もう一回太平洋戦争について冷静に考え、批判的評価を恐れないで言うべきである。そうすることが出来たならば、ミリオタ層はマジョリティ層と「理想的な結婚」をすることができ、日本の外交政策に戦略性が生まれるであろう。

 

 

なぜ「本当に優秀なら女性なら会社はひきとめるよ」は間違っているのか。

先日、友人二人と飲みに行った際、男女平等の話になった。そこで育休と産休の話になった際、友人の一人からこんな言葉が飛び出した。

「本当に優秀な女性なら、会社の方から引き止めるから、現状の制度でも問題ないよ」

そくざに私ともう一人の友人は否定したのだが、酒が入っていたこともあり、具体的にこの発言がどう間違っていなのか説明しなかったので、改めて自分の中で整理しようと思う。

言うまでも無く、「選択肢が理論上あるという状況」と、「その選択の実現可能性」は全く別個のものである。人はみな、生まれた瞬間は無限の選択肢を持っている。だからといって、オリンピックで金メダルをとりたいと思った人がすべて金メダルを取れるわけではない。先ほどの発言は、100メートル走で、一方の人はスポーツシューズを履いているのに、もう一方の人は鉛の靴を履いている状況で、鉛の靴を履いている方に、「君が本当に優秀なら、スポーツシューズを履いてる人よりも早くゴールできるはずだ」というようなものである。疑いもなく、これは少しおかしい。

フェミニストたちが問題とするのはレースの結果ではなく、もしろなぜ鉛の靴を履かざるを得ないかというそのプロセスにある。男性はスポーツシューズを履いたまま、子供と家庭が持てる。しかし、女性は、鉛の靴を履かなければ、家庭と子供を持つことが出来ない。一方で、女性は、子供と家庭をあきらめれば、男性のようにスポーツシューズを履くことが理論上可能であるという事実がある。

この理論上選択できるという状況が、背景にある男女の著しい不平等を隠している。これは何も男女の問題に限らず、社会上のあらゆる弱者‐強者の関係に当てはまるものである。

選択の自由が誰にでも開かれているという建前がふりかざされるとき、選択そのものが抑制になる。不平等を無視する口実になる。「だって彼らは自分でその道を選んだじゃないか。ほかの道も選べたのに。」、と。

シーナ・アイエンガー『選択の科学』 

 選択肢があるという建前は、選択肢がとりやすいかとりにくかという社会上の不平等を隠し、あらゆる問題を安易な自己責任論に収着させる。だが、見かけ上の平等を振りかざし、その背景にある不平等を無視するというのは、社会正義に寄与しない考え方だ。確かに、すべての不平等を考慮にいれることは出来ない。それは共産主義の再来である。しかし、少なくとも不平等を不平等だと認識し、「自己責任論」を振りかざす前に、なぜそういう状況に至ったのかについて理解することは、より良い社会を目指していくうえでの一歩となるだろう。

「自分は何者か」で悩む人たち

先日、若い女性がおじさんにはまってしまう心理を説明した記事を見た。これによると、若い女の人は、おじさんが「自分の知らない一面」を発見してくれることを期待して付き合うのである。自分探しの延長といったところだろうか。

d.hatena.ne.jp

「自分は何者か」という問いはアキレスと亀パラドックスに似ている。つまり問いの設定自体が問いに答えることを不可能にしている。アキレスと亀の難問は、有限な距離を無限に分割して無限な距離にしてしまう。同じ様に、「自分は何者か」という問いは、本来「自分は何か」という問いに答えるものだが、それを「他人からどう見えるか」という問いにしてしまうのだ。

 

有名なフランスの哲学者、デカルトは「我思う故に我あり」と述べた。しかしこの文言の面白いところは、デカルトは「デカルトの存在」を証明したのに、なぜかデカルトの存在だけではなく、地球上にいる人類すべての存在をも証明したところにある。「我思う故に我あり」はものすごく主観的な言葉だが、これが名言として後世に残ると、あらゆる人に適応できる、強力な客観性を帯びたものになった。デカルトは「我」を証明することに成功したが、そのことがかえって「デカルト」がいたことを証明しようとするニュアンスを損なわせた。デカルトは「我思う故に我あり」と述べたが、本来言葉に残す必要はなかったのである。彼は思うだけで良かった。しかし、言葉にした瞬間、それはデカルトの手から離れ、無機質な哲学上の文言になってしまった。

 

そもそもデカルトは「我」の存在を疑う必要も、証明する必要もなかった。デカルトは、「我」の証明をするために、他人が必要となっていた事に気付かなかった。証明する、言葉に残す、疑う―これらすべては他人の存在を前提とする。「我思う故に我あり」は自分の存在だけで「我」を証明できるものでなかった。正確に言えば、「我を疑う他人があると推定する故に我あり」であった。

 

完全に客観を廃した主観的世界、つまり「私の世界」においては、世界は私であり、私が世界でもある。そこには私の存在を疑う必要はない。世界があるからである。世界があるということは私があるということである。同じように、そこで「自分は何者か」という問いもそこでは意味がない。自分は世界なのだから、何者でもある。

 

以上のことを哲学科の友人から聞いた時、自分の中でストンと物事が理解にはまった。私はもともと「自分さがし」や「自分は何者か」ということを考えたことはなかった。私はそれを私が単純であったからと理由づけたが、そうではなく、私はそれをする必要がなかっただけの事だった。「我は我である」や「自分は何者か」という問いは前提として他人、つまり私以外の概念を必要とする。「自分は何者か」という問いは私のうちからはこぼれてこない。「自分は何者か」とは、「他人から自分はどうみえるか」と聞いているのに等しい。しかし、これは無意味である。他人があなたを証明したり、疑ったり、規定するのではなく、あなたはあなたが規定するであるからである。「自分は何者か」という問いは、知らず知らずの内に、あなたの存在を他者の存在に従属させてしまっているのだ。